マサムネは、大きなバイクの後ろに私を座らせると、緩やかなスピードで明け方の街を走り抜けた。どこへ行くのか分からなかったけど、彼の温かい背中は大きな安心をもたらした。十ヶ月前、シュバルツヴァルト黒い森でフィオリーナの背におぶさったときのように。
 知り合ったばかりなのに、どうしてこんなに安らげるのか不思議だった。家に着いた途端、殴られるかも知れないのに。
 辿りついたのは、街外れの丘の上にあるアパートメントだった。二階立ての建物で、建てられてからずいぶん日が経っているらしく壁のあちこちに小さなひびが入っている。
 彼は一階の数ある部屋の一つを開けると、その中へバイクを駐車した。彼の背後から中をうかがうと、フローリングの床の上に数台のバイクが停車されている。
 車庫にしているんだ、とマサムネは言った。
「このアパートは、ぜんぶ貴方のものなの?」
「そうだよ。バブル時代に作られたファッションホテルを安値で買い取ったんだ」
ふぅん、と私は呟いた。
「好きなだけ居ていいよ。イヤになったらいつでも出て行ってくれて構わないし」
「どうしてそんなに優しくしてくれるの?」
マサムネは笑った。
「幽霊の捨て子だからさ」
良く分からない返事だった。私は礼を述べると、彼にあてがわれた部屋の扉を開けた。長年使われていなかったらしい。閉め切った部屋の温かさと、わずかな埃のにおいがした。足を踏み入れた途端、日本へ来てからの疲労が一気に身体へ押し寄せた。動悸が激しくなり、足元から崩れおちるようにその場に膝をついた。緊張の糸が途切れるとはまさにこのことだった。心を守ろうとして、必死に見て見ぬふりをしていたすべてのことが次々と胸元へ押し寄せてきた。これらの思い出を上手く切り捨てられるかどうかが正念場だった。
 精神が病んでしまう前に傍にあった布団を手繰り寄せて早々に眠ってしまうことにした。疲労困憊した身体が温かいふとんに押し込まれると、私は気絶したかのように昏々と翌日まで眠り続けた。


 二階の一室がマサムネのプライベートルームになっていた。
 翌日、お昼すぎになってからようやく起き出した私は、空腹をどうにかしてもらおうと彼の部屋を訪ねた。
 ドアに鍵はかかっていなかった。丸ノブを回して中へ入るとリビングの中央に設置された大きなベッドの上で彼は眠っていた。彼は両腕に二人の女の子を抱いていて、彼女たちもすうすうと小さな寝息を立てていた。三人を起こさないように抜き足で傍を通り抜け食べ物を探した。
 幸いにもマサムネの部屋には大きな冷蔵庫が取り付けられていて、その中に潤沢に食べ物が蓄えられていた。食べ物を見た瞬間、唾が絶え間なく湧き出て、ここぞとばかりにお腹がぐぅぅと鳴った。冷蔵庫の前にしゃがみこんで、手当たり次第に中にあったものを口に含んだ。
 私の空腹の音で女の子の一人が目覚めたようだ。うんうん唸りながら寝がえりをうち、眠たげな目をぼんやり開いた。
「あんた誰ぇ~?」
女の子は言った。
 半身を持ち上げると、私よりもずっと大きなおっぱいがぷるぷると震えていた。今の私にはそれすら美味しそうに見えた。女の子は生まれたときそのままの姿で私の隣にしゃがみこむと、手を伸ばして私のくわえていたものを取った。瞼をこすりながらつまんだ肉の切れ端を窓の外へ放り投げる。ああっと思ったけれど、後の祭りだ。
「生肉、食べたらダメでしょ」と女の子は気だるげに言った。
「どうして食べちゃいけないの?」
「あたしにもよく分かんない。でも、法律でそう言うことになっているみたい」
「逮捕されちゃうの?」
「そうかもねぇ。あたしの彼氏、それで捕まったのかも」
「教えてくれてありがとう」
「気にしないでいーよ。それよりあんた、煙草持ってる?」
「持ってない」
「じゃあ正宗の、借りちゃおうかなぁ」
女の子はそう言うと、眠っているマサムネの枕の下から真っ黒なパッケージの煙草の箱を取り出した。甘い香りが辺りに広がる。とても良い匂いだった。
 私は食べることも忘れて、女の子から煙るその匂いを嗅いでいた。


 その日から、お腹がすくと彼の部屋にある大きな冷蔵庫へ向かうようになった。冷蔵庫には毎回、食べきれないほどの食物が貯蔵されていた。食べても食べても減らなかった。わたしが扉を開けるようになってから徐々にお菓子の数も増えてきた。
 一度だけ、『おおきなけーきがたべたいです』とつたない日本語で紙に書いて、扉に貼りつけたことがある。すると次の日には山のように大きなケーキが三個も、可愛い包装紙にくるまれて置いてあった。チョコレートやマカロン、キャンディやクッキー、たくさんのお菓子と一緒に。
 これは、すごい! 魔法の箱だ!
 興奮して、眠っているマサムネと女の子たちを起こすと、彼らは寝ぼけ眼のまま、それでもにこにこしながら話を聞いてくれた。次第にわたしたちは一緒に遅い朝食を摂るようになった。
 マサムネと、マサムネの周りにいる女の子たちと。
 女の子たちは毎回顔ぶれが違った。どの子もいつもにこにこしていて、わたしが部屋に入って勝手に物を食べたりしていてもまったく嫌がる素振りを見せなかった。わたしは総勢二十人くらいの女の子たちと友達になった。みんな、胸が大きくて、優しかった。あおいちゃんあおいちゃんとわたしを呼んで、とてもかわいがってくれた。
 彼女たちの存在は遠い記憶の底にある、薄ぼんやりとした「お母さん」を思い起こさせた。
 わたしは、マサムネも、彼の周りにいるたくさんの「お母さん」たちも、大好きだった。


 マサムネの生活は、わたしが今までに見てきた日本人のそれと少し違っていた。
 彼は明け方から昼間にかけて、ベッドの中でずっと眠っていた。わたしが朝食に起こしに来て、ようやく一日が始まる感じ。ご飯を食べ終わると大音量で音楽を流しながらトランシーバーのような電話機を使って、様々な人のところへ電話をかける。そのときのマサムネの目は鋭い。夕方近くに、日本語を教えてくれたり、おもしろい音楽を聞かせてくれたりするときの顔つきと全然違う。
 マサムネがどこかへ電話をかけるとき、わたしはすっと部屋からいなくなるようにする。あんまり、そのときのマサムネを見たくない。夜、自分の部屋にいると、隣の部屋からバイクを運び出す音が聞こえてくるから、きっとどこかへ出かけているのだろう。日中、わたしは女の子たちと遊んでばかりいるから、本当言うと、マサムネのことはよく知らない。