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 工場の方で小さな爆発があって、外がとても慌ただしかった。
 鉄柵に囲われた窓から身を乗り出すと、モミの木の下をたくさんの科学者が行き来している。見覚えのある人もいるような気がしたけど、彼らはみんな無愛想で無表情なので見分けがつきにくい。叫びのような号令の声も、岩のように分厚いガラス越しじゃよく聞こえない。
 階下の混乱も、しばらく眺めているとさすがに飽きてきた。私は窓辺からするりと降り立つと、長い髪を引きずって簡易ベッドに横たわる。寝る前いつもやるよう に、私の中の神様へ祈りを捧げる。そのうちに、夕食後の薬が効いて、なんだか眠くなってきちゃった。
 腕を持ち上げて、月夜に透かしてみる。たくさんの注射針の痕。関節の部分は針を刺し過ぎて黄色く変色している。
 明日もまた、訓練か。
 両手を閉じたり開いたりしながら、ふあっと欠伸をする。
 この日常にも、もう慣れた。六歳の時にここへ連れられてきてから、あっという間に十年だもんね。昔の暮らしと今の暮らし、どちらがマシだったのかと比較したりもするけれど、記憶が薄れていくに連れて過去側の天秤が徐々に軽くなってきている。
 昔に比べたら、きっと良い方。あれは、人間の生活じゃなかった。ここではちゃんとご飯が食べられる。眠られる。起きられる。大人たちは無愛想だけど親切だ。
 ふふふ、と笑いながら甘いまどろみの中に沈んでゆこうとしたところ、コンコンと扉を叩く音が聞こえた。
 こんな時間に、誰だろう? 眠りにつく時間に来客なんて、今までに一度もなかった。
 上半身を起こして入口をうかがっても、扉の開く気配がない。私の気のせいだったのだろうか。再び眠りに就こうとしたとき、コンコン! 今度は強く、部屋の窓を叩く音が聞こえた……窓?
 ドキドキしながら、先ほどまで自分が座っていた窓辺を仰ぐと、人影が優雅にもたれてガラス戸を叩いていた。外では再び爆発音。空が一瞬だけ 赤く光った。その瞬間、窓辺に佇む人の顔が見えた。キラキラした朝日のような髪の毛の、美しい女の人だった。にっこり笑って手を振る。
 私は、ついに迎えに来たのだと思った……でも、何の迎え?
「グーテン・アーベンド(こんばんは)」
 声には出さず、女の人は言った。私も声に出さず、挨拶を返す。グーテン・アーベンド。女の人は満足げにうなずくと、ベッドの方へ指をさす。それが「窓から離れていて」という意味であると察するのに大した時間はかからなかった。
 女の人の人差し指がガラスを円形になぞる。それからおでこをつつくみたいに、ひび割れた円の中央を小さく押した。冬の日の早朝に氷張を踏みつけたような音がして――この音も十年前に聞いて以来だから、もしかしたら間違っているかも知れないけれど――描いた円の通りにガラスが割れた。
 私は飛び上らんばかりに驚いて、思わず二歩も三歩も後ずさりしてしまった。
「アオイ」
女の人は透き通るような美しい声で私の名前を呼んだ。
「今日は何月何日か知っている?」
女の人に尋ねられ、私はハッと気がついた。今日は十二月二十四日。今から二千年ほど前にこの世で最もかわいい赤ちゃんが、馬小屋で誕生した日。この女の人は女神様なのかも知れないと思った。彼女の顔は今までに見たことがないくらい美しく、この世のものとは思えなかったから。
 女の人の背に浮かぶ巨大な満月が、後光のように光っている。
「貴女を迎えに来たの」
「私、天国へ行くのね?」
今までに何百回と思い描いた想像上の天国を思い浮かべる。それは春の日のベッドのようにふかふかで温かな場所。痛みも苦しみもない世界。天国へ行けるなんて、私はなんて幸せ者だろう。
 だけど、彼女ははっきりと首を振った。
「いいえ。貴女が行くところは、世界よ。この世のすべて。天国よりも美しいものがたくさんあるわ」
遠くでまた爆発が聞こえた。女の人の優しいまなざしが、一瞬だけ剣のような光を宿して工場の方を一瞥する。
 そこで初めて、彼女の着ているものが天使の衣などではなく、かっちりとした黒い防弾スーツであることに気がついた。胸には硬い皮に収まった小さな銃。腰のベルトにも大きくて重そうな銃がぶらさがっている。聞いてはいけないことだったのかも知れないけれど、好奇心にあらがえず、尋ねてしまった。
「女神様も銃を持たなければならないの?」
女の人は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにまた優しい顔に戻って、
「人と人とが分かりあうためには、優しさだけじゃ足りないのよ……さあ、手を出して。私の身体にしっかり捕まって。怖かったら目を閉じていてね」
言われたとおり、彼女の細い首に肩を回すと、ふわりと優しい香水の匂いが香った。
 女の人は私をおぶったまま窓枠にしがみつくと、耳元のイヤリングに向かって一言二言、語りかけた。その瞬間、一際大きな爆発が工場から吹きあがり、銃声に次ぐ銃声が暗い森を席巻した。
 女の人は建物の凹凸を器用に伝い、地面へ飛び降りると、私を背に抱えたまま森の中を駆け抜けた。吹きつける疾風の中、薄目を開けて背後を見ると私のいた建物が赤く、警告の色に点滅していた。
 暗い森を、まるで予め線を引いていた迷路の上でも歩くように正確なカーブを描きながら女の人は森を抜けた。
 彼女の背にゆられながら、私は眠気と戦っていた。どんなに気持ちが高ぶっていても、毎日同じ時刻に眠りの波はやってくる。考えてみれば、私が日々の実験に対して余計な考えを持たないよう、毎食後の薬は提供され続けているんだった。
 うとうとしながら、時間だけがものすごい速さで進んで行く。意識は海底を目指しながらも、沈んでは浮かび、沈んでは浮かびして、なかなか私を深い眠りへ運んでくれない。一回だけ、車の座席の冷たさで、眠りながら目が覚めた。
 近いような遠いような微妙な場所から男の人の声がした。
「空港へ出るまで、眠らせておいた方がいいかも知れない」と男の人は言った。
「もちろん、副作用の残らないようなやり方で」
 女の人が私の頭を撫で、そこで私は女の人の膝に頭を預けて横になっているんだと分かった。足に当たる座席のシートは冷たくて鳥肌が立つくらいだったけれど、女の人の膝に触れた耳は熱く火照っていた。
「その方が良さそうですね」
と女の人が頷いた。私は唇をもぐもぐさせながら、半分寝ぼけた声で彼女に聞いた。
「私、これからどうなるの?」
「自由になるのよ」
女の人は高い声ではっきりと言って、私の手をぎゅっと握った。私は安心したのかも知れない。それが眠りの波にさらわれる前に聞いた、彼女の最後の声だった。