POKER and HANAHUDA


 宵の更けた横浜のBAR「Sherlock Holms」は今日も閑散としている。店内にかかったマイルス・デイヴィスの画期的なトランペットが人声にかき消されずに響き続けているところからもそれは伺える。耳を澄ませば、「Sherlock Holms」のマスター、ルイスがグラスを磨くキュッキュッという音までもが聞こえてきそうだ。彼は店内に吹きすさぶ不況の風に肩を落とすこともなく、楽しげに或るテーブル席を眺めていた。
 ルイスの視線の先、カウンターを背にして右端、四人掛けのテーブル席の一つに、店内で唯一の客人である二人の男が向かい合って座っている。彼らの周りにだけ煙草のスモークが、ロンドン市街に漂う宵霧のように白く渦巻いていた。灰皿には十本の吸殻。テーブルの上にも真新しい煙草のフィルターが散乱している……打ち棄てられたトランプと共に。
「レイズ」
 カウンターに背を向けて座る男が言った。彼の口には新たに火をつけた黒い煙草がくわえられている。灰皿に埋もれた煙草の吸殻は全て彼が吸ったもので、この店に来てまだ二時間も経っていないのにもう空箱を一つ作ってしまっていることから、相当のヘビースモーカーであることが分かる。天井の橙色のライトに照らされて、彼のプラチナブロンドもオレンジ色に染まる。手に広げたトランプを見る目は青い。横浜に珍しいことではないが、彼は日本人ではない。ある事情で、今はフィアスと名乗っている。長い足を組みながら、フィアスは退屈を紛らわせるように黒い煙草を吸う。実際のところ勝敗がほぼ確定したカードゲームを前に、彼は退屈していた。自分の部屋に帰りたいと考えていた。
「ホールドだろ、ホンゴウ?」
「まさか。コールするぜ」
 彼の言葉に向かいの席に座る男が答えた。こちらはトランプを握りしめ、にらめっこをするように五枚のカードを睨んでいる。非喫煙者の彼は片方の手で、フィアスが吐きだした煙草の煙を霧散させていた。坊主頭に近いくらい短く刈られた髪の毛は濃い金色。それはヘアカラーで染められているだけで、彼の黒い瞳は生粋の日本人である証。向かいの男より五つほど若く、まだあどけなさの残る顔を苦渋に歪め、ぐぐぐ……と歯がみする。男は、このシックな雰囲気のBARに似合わない、昇り龍の描かれた青いスカジャンを羽織っていた。苛立たしげに貧乏ゆすりをする足には龍の刺繍が施されたジーンズを履いており、その派手な外見から不良少年に見間違われても不思議はない。これでも彼は横浜に陣を張る何でも屋だ。名前を本郷ほんごう真一まいちという。
「コールで本当にいいのか? 後悔するかもしれないぞ」
フィアスの問いかけにも、真一は姿勢を崩さない。
「売られた喧嘩は買う。俺の流儀だぜ」
「……喧嘩を売ってるんじゃない」
「どうでもいいから、早くショーダウンしてくれ」
苛立った真一に急かされて、フィアスは微かな溜息をつきながら五枚のカードを開示した。
「スリーカード」
まじかよぉ、と声をあげて真一は手にしたカードを投げ捨てる。A、8、4、9、5……ノーペア。どうしてペアができあがっていないのに、コールを持ちかけたのか。意味が分からない。
 うなだれながら、真一は手にした三本の煙草をフィアスに渡す。JUNK&LACKというフィアスの愛用煙草が今回のチップとして使われているのだ。真一に与えていた煙草を全て回収したフィアスは、それをJUNK&LACKのパッケージに戻した。
「俺の勝ちだな」


 八月某日。笹川組の屋敷で、〈サイコ・ブレイン〉の存在を確かめてから三日経つ。何でも屋にて籠城作戦を開始したのは良かったものの、〈サイコ・ブレイン〉からの連絡・・はない。溜まったストレスを煙草で解消するフィアスを見兼ね、真一は彼をBAR「Sherlock Holms」に誘った。このままでは、クリーンが売りの何でも屋が煙草くさくなってしまう。真一の方も漫画とプラモデル造りに少しばかり飽き飽きしていた頃だったので丁度良かった。
いつ〈サイコ・ブレイン〉がやってくるか分からない。初めのうちは外出を嫌がっていたフィアスだったが、何でも屋の真下にある「Sherlock Holms」ならば、ということで渋々真一の要望を受け入れた。
 「Sherlock Holms」に来たものの、何もすることがない。そこでどこからか真一がトランプを持ちだしてきたのが、一時間前のこと。
元来から考えが表情に出やすい真一にポーカーフェイスなどできるわけもなく、人並みの博打運のフィアスでも、真一の表情を読み取るだけであっさり勝ってしまった。煙草一本につき五千円のチップ。真一は取り立て屋の茜の他に、フィアスにも五万円ほど、借りを作ってしまったことになる。


くっそー、と悔しそうに呻きながら、真一はトランプをかき集めた。
「もう一勝負!」
「もう破産してるだろ……」
「もう一回!」
「チップを持っていないだろうが」
 いやいやいや、俺にはまだ奥の手があるから。真一はにっこり笑うと羽織っていたスカジャンを脱ぎ捨てテーブルの上にどん、と置いた。その振動で、フィアスのジン・トニックと真一のコカ・コーラが大きく波打つ。昇り龍の刺繍が天井のライトに照らされて金色に輝いた。フィアスは大分げんなりしながら、今にもテーブルからはみ出しそうになっているグラスを取るとジンを一気に飲み干した。グラスに入っていた氷がこの一時間のうちに全て溶け、酒と混ざりあっている……まずい。フィアスは空になったグラスを隣のテーブル席に退けると、ついでに真一のスカジャンも押し返した。
「いらない」
「お前にくれるとは言ってないぜ。次は俺が必ず勝つ」
「帰らせてくれ……」
嘆くフィアスを思い切りの良い笑顔で無視して、真一はルイスにウォッカとジンジャーエールを追加注文する。