それにしても、どうして自分は朝っぱらから本格中華などを作っているのか。何を間違って、こんな結果にたどり着いたのだろう。何度でも頭に浮かんでくる疑問を打ち消し打ち消し、醤爆鶏丁という中華料理を作り終えたとき、時計の針は十一時二十分を指していた。肉の焼ける香ばしい匂いが漂う中、フィアスは煙草に火をつける。醤爆鶏丁は強火で肉を焼くだけの簡単な北京料理。材料から察するに、龍頭凛はこれが作りたかったに違いない。彼女のものより大分見栄えが良くなってしまったが、黙っていれば恐らくバレない。
「何故、中華料理なんか作っているんだ俺は。しかも、朝っぱらから……」
耐えきれずに独り言が出た。あれもこれも龍頭凛が、料理をする、なんて変な気を起こすからだ。キッチンの壁に背中をあずけ一服してから、吸殻をシンクに投げ捨てた。
 なんだか吐き気がする。むせ返るような肉の匂いを嗅ぎ過ぎたか。料理をした後の人間がそうであるように、フィアスもまた後の三時間は食べ物を口にしたくなかった。しかし、そういうわけにもいかず、これからリビングにいるであろう龍頭凛を呼びに行かなくてはならない。本来、これは凛が振舞うはずの料理なのだ。まあ、大爆発を起こしたような凛の料理を食わされるだけマシ、か。
 ドアを開けると……どうしたことか、凛の姿が見えない。フィアスは眉根を寄せた。部屋に人の気配がしない。息遣いも物音も、何一つ。真紅のソファの上に一通の手紙が置いてある。妙な胸騒ぎがして、フィアスはすぐさま文面に目を通す。そこには流麗な女の字で、こう書かれていた。

友だちに会いに行ってくる。
すぐに戻るから、信じてね。
RIN

文章の一番後ろに、殆どの当てつけに近いルージュのサインを見て、フィアスは頭をハンマーで殴りつけられたような、気の遠くなる思いがした。
 胸騒ぎが的中した……龍頭凛が、逃げ出した!
「アイツは、何を考えているんだ!」
テーブルの上の車のキーを乱暴に引っ掴むと、フィアスは頭をかきむしりながら部屋を後にする。


 龍頭凛はどこにも行くあてがないはずだ……〈サイコ・ブレイン〉を本当に抜けたのであれば。
 未だ〈サイコ・ブレイン〉と繋がりを断ち切っていないのであれば、そして凛の言う「友だち」が〈サイコ・ブレイン〉に所属する誰かであれば、少々マズイことになる。
 猛スピードで車を飛ばしながら、フィアスは凛の行き先を考えてみたが、勿論、思い当たる節がない。やみくもに車を走らせていては、時間が経つばかりだ。真一に電話をかけようと思い、懐を探ってみたが携帯電話がない。そういえば、小一時間ほど前、龍頭凛に渡していた。凛は自分の携帯を持っていないので、「友だち」とやらに連絡をとったのは大方自分の携帯からか。全く、勘弁してほしい。
 フィアスはハンドルを右に切って閑静な住宅街へ突入する。もう数分車を走らせれば、笹川邸と書かれた荘厳な建物が見えてくる。とりあえず、奴の助けが必要だ。
 笹川邸の門の前にフィアスは車を乗りつけた。重苦しい正面門を自力で押している暇はない。初めてここへ来た時と同じように、邸宅を取り囲む塀を難なく乗り越えた。四季折々に彩られた中庭を通って、ガラス戸で仕切られた笹川組の玄関扉を叩く。
「ホンゴウマイチ、いるか!」
「うん? フィアス?」
すぐさま、寝起きらしい本郷真一が走って来た。だらしなくスウェットの裾を引きずっているが、眼ははっきりと見開いている。こちらの慌てぶりが伝わったらしい。不安そうに眉を曇らせて、早速わけを尋ねてくる。
「一体、どうしたんだよ、こんな朝っぱらから? 何をそんなに慌てているんだ?」
「少し目を離した隙に、リンがいなくなった」
「龍頭凛が? 俺、さっき凛と電話で話したばっかりだぜ」
「その直後にいなくなったんだ。〝友達に会う〟という置き手紙を残して。今、行方を追っている」
「どこにいったか、見当はついているのか?」
真一に尋ねられ、フィアスは苛立った様子で首を振った。
「思い当たらない……だが、リンは俺の携帯電話を持っている。GPS機能を利用して、居場所を特定できるはずだ。少しの間、お前の電話を貸してほしい」
「別に構わないけど……」
真一がスウェットのポケットから取り出した携帯電話を受け取る。手短に礼を述べて、すぐさま車に戻ろうとするフィアスの後を真一が追ってくる。
「ちょっと待てよ! 俺もついていくって!」

フィアスと真一を乗せたBMWは住宅街を抜けて、国道に戻った。
「今から言う番号に」
ハンドルを手放せないフィアスに代わって、真一は指定された番号へかける。ワンコールもしないうちにフィオリーナの清らかな声が受話器先に届いた。
――この電話番号は、本郷さんですか?
実に一年ぶりに聞くフィオリーナ嬢の美声に声が上ずったが、真一はなんとか短い挨拶を返す。早速本題に入った。
「実は、GPS機能を使ってフィアスの携帯電話を探してもらいたいんです」
受話器先でフィオリーナが少しだけ息を飲んだのが分かった。
――まさか……彼の身に何か?
「違う。俺はここにいます」
スピーカーフォンを聞きつけて、フィアスが答える。
「事情は後で説明します。できるだけ誤差の少ない装置で、携帯電話のある場所を特定してもらいたい。一刻を争う緊急事態なんです」
物分かりの良い女上司は訳を尋ねず、すぐに理解を示した。
――分かりました。誤差1cm以内で特定しましょう。
受話器先から機械操作音が聞こえてくる。コンピューターから人工衛星に直接アクセスしているのだろう。数十秒、時間を要しそうだ。ここぞとばかりに真一が口を開いた。
「なあフィアス。こんな時にアレなんだけどさ、ずっと気になってたことがある」
「何だ?」
真一は身を乗り出し、運転席に向かってくんくんと鼻をひくつかせた。
「お前から、なんかうまそうな匂いがする」
途端、真一の腹が鳴る。めざとくも、先ほどの料理の匂いを嗅ぎつけたらしい。寝起き姿のまま車に乗り込んだ真一は、当然ながら朝ごはんも昼ごはんも食べていないのだった。考えてみると、少し不憫かも知れない。
「無事に一件落着したら、好きなだけ醤爆鶏丁を食わせてやる」
「醤爆鶏丁?」
「ああ。後でな」
携帯電話の場所を特定できたようだ。受話器先にフィオリーナが出た。
――あなた方の居る場所から十五キロ以内、須賀濱すがはま埠頭近くにある貸倉庫の一つです。対象はその場から一メートルも動きがありません。
 何かのアクシデントがあって龍頭凛は携帯電話を捨ててしまったのか。携帯電話を持ったまま、動けない状況にあるのか。そもそも、友達と会う場所が、闇取引をするに適当な「東京湾近くの貸倉庫」だというのは何やらにおう・・・。行きつく先にしか答えはない。
――カーナビにデータを送ります。指示に従ってください。
「了解しました」
フィアスは頷き、
「おい、マイチ。シートベルトだ」
真一は首をかしげた。
「え?」
「シートベルト。このままだと、フロントガラスに頭をぶつける」
フィアスのハンドルを握る手に力が入る。フィアスの雰囲気にただならぬものを感じ取った真一は、滅多にしないシートベルトを丁寧に、身体に巻きつけるようにかけた。ジェットコースターの上り坂にいるような気分だが、不思議と精神は安定している……というよりも、まな板の鯉。あきらめている。
「飛ばすぞ。車から、放りだされないようにしろよ」
フィアスの声とともに、BMWのマフラーが猛々しいうなりを上げた。