五杯めのウォッカを飲み干した時、腕のロレックスは午前二時を指していた。いつもより酒のめぐりが早いと思って酒瓶のラベルを見ると、どうやらコイツは四十度近くあったらしい。なるほど、それでか。額に手を当てると、フィアスは真紅のソファに横になる。眼を閉じると頭の髄が一瞬、閃光の如く痛んで、思わず舌打ちした。眼を閉じても、酒に酔わされても、一向に睡魔は訪れない。いつもそうだ。眠ったようで、眠っていない。深夜のひっそりとした静寂が胸をざわつかせる。暗闇の中で、凛から聞いた情報が堂々巡りをする。
 〈サイコ・ブレイン〉は、化学兵器を作っている組織。兵器を売りもしなければ、使いもしない。所持しているだけ。一体何の為に?
 そして〈サイコ・ブレイン〉のリーダー、ネオ。どんな人物なのだろう? いつ、正体を現すのか。とにかく、コイツの情報を集めなければ……。
 今日、ここへやってきた龍頭凛。彩とは瓜二つだが、性格が百八十度違う。この女も謎といえば謎だ。一体、何を考えているのか分からない。妙な発言や行動が多い。理不尽に怒る。真一のガード以上に先行きが不安だ……。
 ちょうどそんなことを考えていたときだ。
 凛の消えていった扉が静かに開いた。
 フィアスは目を開ける。暗闇になれた目に、凛の姿ははっきりと映った。音を立てずにこちらにやってくる。フィアスは上体を持ち上げて、彼女を見た。凛の着ている服は先刻とは違う。所々レースをあしらった黒のベビードール。むき出した四肢が青白げに光っている。
「……どうした?」
ある予感がしないでもなかったが、とりあえずフィアスは問うた。凛はソファに身をもたせかけると、フィアスに顔を近づけて言う。
「ねぇ、彩のこと、好きだった? 心の底から愛してた?」
「突然、なんなんだ?」
「イエスかノーで答えて」
「ああ……好きだったよ」
「お酒くさいけど、酔ってる?」
「少しだけ」
「それなら、問題ないでしょ?」
凛は首を引いてにっこりと微笑んだ。上目づかいにフィアスを見上げる。それは凛の笑みじゃない。彩がよく見せた、独特の微笑み。誰もが惹きつけられてしまう、美しい微笑み。
 フィアスは凛の髪に触れた。冷たい、水のように指の隙間をすりぬける。凛の身体を抱き寄せると、全身から彩の匂いがした。造り物でも偽物でもない、それはこの世に同じ生を受けた双子の血の匂いだ。凛の髪の毛に顔を埋めながら、覚えている、とフィアスは思った。五年経った今も、全部覚えている。
 残酷だ。
フィアスは凛を、そっと自分の身体から引き離した。
「あんたはリンだ。龍頭凛。アヤじゃないんだ」
「そんなこと、どうでもいいでしょう?」
凛は尚も詰め寄ろうとしたが、苦痛に耐えるような顔のフィアスを見て、仕方なく向かいのソファに回った。その間、フィアスは自己嫌悪に駆られたように、額を押さえたまま少しも身じろがなかった。一分、二分……何も言わなければ一晩でも同じ姿勢のまま、彼が苦悩しつづけるような気がしてしまい、凛は恐る恐る口火を切る。
「あたし、何か悪いことした?」
フィアスは黙ったまま、首を振る。まだ何か心に沈鬱とした感情が残っているらしい。凛は所在なさげに視線をあちらこちらに走らせていたが、沈黙に耐えきれず再び尋ねた。
「彩が死んだときのことを、思い出しちゃったの?」
「違う。そうじゃない。君とアヤを混同して、嫌なんだ。会ったときからずっと、君のすること全てにアヤを重ね合わせている。それが耐えられない」
「もう彩のフリはしないわ」
「これは俺自身の問題だ。君がアヤに似ているせいじゃない」
フィアスはテーブルの上に乗っていた煙草を取ると、一本取り出した。薄暗がりにzippoの火が灯る。眼の前にいる龍頭凛の、闇に溶けていた胸のしるしが炎に照らされ、橙色に揺らめいた。大きな黒蝶の紋章。〈サイコ・ブレイン〉が刻んだしるし。彩と同じ、黒蝶。煙草を吸いながらぼんやりと見つめていると、フィアスの視線に凛も気がついたようだ。
「これは命を〈サイコ・ブレイン〉に捧げますっていう意味なの」
苦々しげに胸の刺青を指さして、凛は言う。
「馬鹿げてると思わない? いくら身体に切り込みを入れた所で、心まで支配することなんてできないのにね。現に、彩だって〈サイコ・ブレイン〉の支配をのがれて、自由になったわ」
「今は、リンも自由だ」
「そうね……」
やんわりと微笑むと凛はJUNK&LACKに手を伸ばす。フィアスがライターに火をつけると凛は身を乗り出して煙草に火をともした。濃くなった甘い匂いがあたりに散らばる。二つの煙草から立ち上る煙が交わって宙に漂う。静寂を煙に巻くように、もくもくと。
「あたし、一人でいる夜が恐いの。まるで自分の呼吸と体温だけしか存在しないみたい。このまま、夜が明けることなく、ずっと一人きりだったらどうしようって、本気で考えちゃうのよ。〈サイコ・ブレイン〉にすがって生きてきたから、孤独が耐えられない身体になっちゃったの。こんな自分が厭になるわ」
凛はもどかしげに唇を噛む。細い足を折り曲げて、ソファの上で膝を抱えた。こうして縮こまると、凛はまだ幼い少女のようで、ひどく心もとない存在に思えた。思えば、彼女は物心がつくかつかないかのうちに〈サイコ・ブレイン〉の元へ売られてきて、唯一の姉妹が死んだ後は、彼らに体を売って生き延びてきたのだ。その手段の他に、他者との関わり方を知らずに、大人になってしまった。そうして、いきなり外の世界へ放り出されてしまったのだから、現状に戸惑うのも無理もないことだった。
 フィアスは咥えていた煙草を左手に持ち直すと、素直に頭を下げた。
「さっきは、戸惑わせてすまなかったな」
凛は苦笑する。
「謝らないで。そんな風にされると、余計に孤独に思えるわ」