真一が豪奢な造りの襖を開けると、五十畳ほどもあろうかという巨大な部屋の両側に、笹川毅一とさほど年の変わらない、顔に深い皺を湛えた男たちが数十名ほど、一堂に会していた。全員が浮世の酸いも甘いも知りつくした、森厳で深い色の目を持っている。それでいて、瞳の奥には鷹以上に鋭利な光を宿していることも事実。体中をナイフで切り刻まれているような感じがする。
 このじーさんたちは俺の器を計ってる、と真一は思った。
 笹川毅一の古馴染みといえど、ここにいる老獣たちは虎視眈々とつけ入る隙を狙っている。真一は息を呑んだ。ここでの礼装とされる紋付織袴の黒い羽二重が真一の肩に重くのしかかった。ここは真剣に物事を運ばなければならない。微々たる失敗も許されない。自分は笹川毅一の孫として、恥のないようにふるまわなければならないのだ。
 昔から、真一は厳かに静まり返った雰囲気が大嫌いだった。例えば中学の時に真一が割った窓ガラスの分だけ行われた反省会の時間とか、昔付き合っていた女の子が泣き出した瞬間とか、そういえば小さい頃によく悪戯をやらかして、じーちゃんに説教されていたっけ。この大広間で、二時間くらい。
そんなとき、真一は必ずといっていいほど頼れるものの方へ逃げて、時間が過ぎるのを待った。学校の校舎裏、自分の部屋、友達の家、慶兄ちゃん……、だが、この瞬間に逃げ場はなかった。
辛うじてここにいる誰より中立的な立場に立ち、逃げ場所ともいえる存在はフィアスだったが、今ごろ彼は手持ちぶさたのまま、笹川邸の前で煙草を吸っていることだろう。このお祭り騒ぎに少しばかり辟易しながら。
フィアスだったら――、真一は思った。フィアスだったら、難なくこの状況を切りぬけられるだろう。頭のいいヤツだ、自分と同じような立場に置かれていたら、誰一つ恨みを買うことなく、穏便にこの役柄を退けるだろう。色々な所で暗躍して、絶対に自分の意思に反することは―例え、そこに義理や人情が絡んでいようとも―引き受けない。敵も作らず、自分を殺すこともしない。きっとそれが、自分に持ち合わせのない、「スマート」という言葉の意味なのだ。
 ちくしょう。真一は背後に立つ一之瀬にも気づかれないくらい小さく毒づくと、黒と灰色の縦縞の袴をすりながら居間の中心部へ向かって行った。
 開式や推薦人(推薦人は一之瀬が務めた)の挨拶などが淡々と進むと、真一は同じように紋付を着た笹川毅一に向かい合うように腰をおろした。笹川は真一が今までに見たことのない表情をしていた。鉛のように重い、覚悟を決めた男の表情カオだ。今更ながら、目の前に畏まる祖父の強烈な威圧感に気押される。笹川はしわがれた太い声で数分の挨拶を述べたが、一向、真一は聞いていなかった。ただ目を伏せて、自分の順番が回ってくるまで身じろぎもせずに待った。
 真一は、覚悟を決めた。


 笹川は、笹川組のこれまでの来歴や、真一のことや、自分の果たしてきた役目のことなどを悠然たる面持ちで語り終えると、ひどく長いため息をついた。隠居などと自称しておきながら、よくもこの世界にしがみついきたものだ。実際は肩書だけの「組長」であったのだが、それでも笹川組の第一人者であることには変わりない。幾年、老体に鞭を打って、「威厳」という二文字を維持し続けてきたことか。
だが、その人知れずの苦労も今日という日が来て、報われる……。
 目の前に正座をしている孫の姿を見て、逞しく育ったものよ、と笹川はやや悦に入った。緊張しているのか、真一の目は閉じられているものの、がっちりした健康的な体躯からは生気が迸っている。本人は気づいていないようだが、この若者には任侠の元締めとしてやっていけるほどの素質があることを笹川は見抜いていた。義理と人情を忘れたこの世界に、以前の姿を取り戻すことも、不可能ではなかった。
 だが、いざ真一の挨拶の順番が回ってくると、どうしたことか、真一は両手をついて額を畳のすれすれまで近づけて、笹川毅一に土下座をしたのだった。それがあまりにも潔良いものだったので、笹川を含む一同は何の驚嘆も非難も出てこなかった。
「畏れ多くも、お役目をご辞退申し上げます」
沈黙を真一が破った。すぐさま辺りは騒然と賑わった。ここぞとばかりに不満を漏らすギャラリーの低い声が、会場内を剣呑な空気へと移り変えようとしていた。笹川は口を固く結んだまま、目の前で静かに頭を下げている若者を見下ろしている。厳しい顔のまま、一拍手を打った。広い室内に弾けるように拍子が響き渡ると、誰もが口を閉じて静かになった。
 嵐の後の静けさが部屋中を取り巻く中、笹川は静かに口を開いた。
「真一、お前は今、自分が何といったのか、分かっているのだろうな?」
着物の肩先が雷に打たれたように、一回震えた。次期組長になるはずであった青年は、顔を地面に伏せたまま「はい」と答えた。
「わけを話してもらおうか」
「ごめん、じーちゃん」
真一は言った。
「正直に言うよ。俺、棟梁になりたくないんだ。他の組織ににらみを利かせたり、若い連中に制裁を加えたり、規律とか、掟とか……俺にはできないよ。そういう柄じゃないの、じーちゃんが一番よく知ってるだろ? それに俺は、何でも屋の仕事がすっげー好きなんだ。金も名誉もないけれど、この仕事をやっていて、いろんな場所に行って、かけがえのない友達にたくさん出会った……他に選択肢はないよ。俺には、この仕事がすべてだ」
腰を上げると、真一は笹川に丁寧に礼をする。そして床の間に腰を据えた全ての客人に対し、頭を下げた。
「この度の非礼、深くお詫び申し上げます。全ては俺の未熟さに起因するところです。どうか、ご容赦下さい。」

 強面のヤクザたちが見守る中、袴の裾を引きずりながら、真一は床の間を出た。誰も何も言わなかった。庭に通じる障子を開けて、迷路のような廊下をひたすら歩く。いつもなら数十分は迷うはずの渡り廊下も、不思議な事に、今日はすんなりと通過できた。
 玄関から外へ出てすぐ、西日が柔らかく真一を照らし出した。真一は大きく深呼吸をする。袴を擦らないよう、裾を持っていた手が、今までに経験したことがないほどの冷や汗でびしょびしょになっていた。それも今は風に吹かれて、ひんやりと心地良い。真一は大きく息を吐き出すと、荘厳な門戸を押す。木材のこすれる、重い音が鳴る。
 重厚な扉がいつもよりすんなりと開いたのは、外側で誰かが手伝ってくれたからだった。
「予定より早かったな」
門戸を支えていたのはフィアスだった。初めは早々と笹川邸から出てきた真一に首をかしげているようだったが、真一が門戸の隙間から出てくるなり、興味の対象は真一の着ている紋付に変わったようだ。
 「どうしてサムライの格好なんだ?」と聞くので、真一はにやりとして答えた。
「何でも屋はサムライの仕事なんだよ」