荻野刑事に礼を言うと、フィアスは立ち上がった。
「俺は帰るぞ」
その言葉をきいて茜も席を立つ。チューハイにやられたのか、かなりふらふらした足取りで高い座敷席の敷居をまたぐ。見送りかと思いきや、その調子で後からついてくるのでフィアスは言った。
「オギノ刑事を放っておいていいのか」
座敷を振り返れば、荻野刑事は大分赤い顔で日本酒をちびちびやっている。泥酔とまではいかないが、このまま放っておくのは危険極まりない。てっきり娘が介抱するのかと思いきや、茜はチューハイに紅潮した顔をニヤつかせながら自分の携帯電話を見せた。
「お母ちゃん呼んだ。これで親父の酔いも一気に吹っ飛ぶやろ」
 カウンターで身銭を切ろうとしていた茜を止めて、フィアスはクレジットカードで一括支払いにする。茜は納得のいかないような顔をしたが、「リュウトウマサムネの情報提供料だ」と言うと、腑に落ちないながらも頷いた。
「やっぱ、ホストは気前がええな……」

店を出るとまだ空は明るかったが、徐々に夕闇色の差す気配があった。そろそろ真一の話合いは決着がついているだろうか。フィアスがスーツのポケットから車のキーを取り出したのを見ると、茜はすかさず言った。
「兄ちゃん、山下公園に行かへん? ここから歩いても、そう遠くないやろ?」
「何故?」
「まだうちのお願い、聞いてへんやん。ちょっとくらいええやないの」
「“本郷真一を連れて来ない事”がお前のお願いじゃなかったのか?」
茜が電話をかけてきた時、堅く約束させられたのだ。真一を連れて来ないこと、どこかに置いておくこと、そうすれば荻野刑事に会わせると。
 丁度、真一が組の後継ぎ問題に頭を悩ませていたので、良いタイミングだった。今やSPのようにガードの堅くなったヤクザがごろごろいる笹川邸に置いておけば、〈サイコ・ブレイン〉に命を狙われることもない。
「それとも、山下公園に行くことが、君の願いなのか?」
「そんなわけないやろー」
茜はひどく甲高い声でぎゃははははっと笑った。まだ酒の酔いが醒めていないらしくばかにテンションが高い。
 千鳥足のまま、どことも分からない場所へ向かおうとするので、慌ててフィアスは止めた。荻野刑事はほろ酔い加減だったが、こちらは泥酔状態だ。ほったらかしておくと、何をしでかすか分からない。本郷真一といいこの子供といい、それに龍頭凛といい、どうして自分を取り巻く面々はこうも危うい連中が多いのか。彼らの起こすハプニングに比べれば、戦闘組織BLOOD THIRSTYに所属していても、自分などモラリストの範疇はんちゅうだ。
「話ならここで聞こう。話しが終わったら、あの店にいる両親に合流して、家に帰った方がいい」
フィアスは両腕を組んで茜の口から出てくる言葉を待った。荻野茜はまだふらついていたが、頭を二三度振ると軽く咳ばらいをして話し出した。
「真一、おるやろ? 本郷真一。アイツ、どうもヤクザ屋さんの後継ぎになってしまうみたいやんか。それを兄ちゃんに止めて欲しいねん……うん」
フィアスは怪訝な顔で茜を見た。
「止める?」
茜は世話しなく目線を色々な所へ走らせていたが、やがて意を決してフィアスを見返した。
「うん。真一がヤクザになんのを、止めてほしい。うち、将来は警察官になるやんか。もし真一がヤクザになってしもたら、逮捕せなアカン。そんなん、イヤや。兄ちゃん、真一の友達やろ。なんとか説得できるんちゃうかな……」
「無理だ」
きっぱりと言い放ったフィアスに、茜はひどくショックを受けた顔をした。まじまじとフィアスの顔を凝視する瞳が少しばかり金色に潤んでいる。酒の力で神経過敏になっている彼女に、今の言葉は鋭すぎた。
フィアスは米神に手を当て、しばらく言葉を選んでいたが、やがて静かに口を開いた。
「ヤクザになるかどうかは、マイチと笹川組の問題だ。マイチの決断一つで、大組織の未来が変わるかも知れないんだ。そんな重大な問題を、詳しい事情も知らない部外者が易々と助言していいものじゃない……分かるだろ?」
「うん。それは、分かるよ。確かにうちも兄ちゃんも部外者やけど……」
茜はフィアスから視線を外して自分の足元を見つめた。段々と日の陰りを見せ始めた空は、青から橙、赤へとグラデーションを描きはじめていた。フィアスと茜の足もとにはうっすらと暗い色をした影が浮かび上がっている。
「うちも兄ちゃんも、真一の友達やんか。友達が困ってるようやったら、助けてあげんのが、友達やないの……?」
真一が以前言っていた台詞と似たような事を呟いて、茜は踵を返すと右へ左へふらふらしたまま、「関西お好み 斜陽」へと駆けて行った。


 笹川組の屋敷にフィアスの車が到着すると、玄関先で真一と数人の洗練されたヤクザが待っていた。相変わらず、一々出迎えのオーバーな連中だが、〈サイコ・ブレイン〉が真一に狙いを定めている今、その厳戒態勢は都合が良かった。真一の傍らにはいつもの通り、一之瀬慶一郎の姿がある。今日の一之瀬は刀で切りつけられていない方の片目を細めながら、BMWに乗り込む真一を送り出した。バックミラーでヤクザたちを見れば、どのヤクザも安堵したような、疲弊したような顔をしている。なんらかの大業を成し遂げたらしい彼らの顔を見たら、真一に尋ねなくとも、話し合いの結果が分かってしまった。
「問題が解決したらしいな」
フィアスがそれだけ言うと、助手席で真一がこともなげに「まあな」と呟いた。