笹川の若頭


 立てこもり事件が解決しても、真一の顔は一向に浮かなかった。このところ毎日ホテルの部屋の、棚のような窓のくぼみに腰かけては、物思いにふけったように窓の外を眺めている。興味の対象が少年漫画の誌面から東京湾景に変わってしまったかのようだ。
 その日フィアスが自分の部屋の真向かいにある「何でも屋事務所(仮)」のドアを開けると、真一は今日も窓ガラスに身体を傾かせてうたたねをしていた。フィアスは自分の部屋にあるものとまったく同じデザインのソファに腰かけると、両手に抱えていた新聞紙の束をソファの前にある机に広げる。どれも今日の朝刊だ。日本有数の新聞社のものが四つに、経済関係のものが二つ、英字新聞が三社ほどに、ドイツの新聞まである。
 冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを口にしながら、一面ずつ代わる代わる目を通して行く。
 日本では未だに立てこもり事件のことが報じられていた。犯人は無事に捕まったものの、この立てこもり事件を企てた首謀格はあのチンピラたちではなく、第三者の存在が発覚したという。その首謀格を警察は躍起になって捜査しているらしいが手がかりは全くつかめていない、という主旨のことが紙面の三分の一ほどの大きさの記事で公表されていた。実行犯のチンピラも、首謀格のことを詳しく知らない。〈サイコ・ブレイン〉の徹底した情報保護が、ここでも垣間見える。
 十社の新聞を半分ほど読み進めたところで、真一が口をもごもごさせながら「俺は……笹川組の棟梁に……」とかなんとか、寝言を言っていた。眉をしかめた顔でベリーショートの髪の毛を掻きむしると、窓とは反対側に寝返りを打つ。そしてそのまま、窓のくぼみから転げ落ちた。
 痛がる様子もなくのろのろと起き上がると、寝ぼけ眼のまま、辺りを見回す。
「俺……何かした?」
「窓から転げ落ちた」フィアスが呆れ顔でそう言って初めて、真一は自分がうたたねをしていたことに気づいたらしい。疲労困憊した様子で後頭部をさする。
「あと、笹川の棟梁になるとかならないとか、言っていた」
「じーちゃんの家業を継ぐ夢を見たんだ」
真一は欠伸をしながら起き上ると大きく伸びをした。そしてフィアスの向かいのソファにどっかりと腰を下ろすと、目の前の机に投げ出されている新聞紙の山に向かって「オエッ」と呟いた。真一には、絵のない活字が視界に入ることすら疎ましいようだ。
 目を細めながら、恐る恐る新聞の一面に大きく記された各社のロゴを読む。
「読売、朝日、経済、タイム誌、ポスト誌、そしてこれは……?」
「ドイツ新聞」
「ドイツか。アンタ、ドイツ語も読めるのか?」
「少しだけな」
真一はしばらくうーんと唸って、ドイツ語がびっしりと刻まれた新聞紙を眺めていたが、やがてパチンと指を鳴らした。
「そういえば、すごく昔のことのように思えるけど、龍頭凛が彩として何でも屋に来た時、事務所の前でモメただろ? あの時アンタは、まずドイツ語で凛に謝ってたよな? 一体なんでだ?」
フィアスは暫く目線を斜め上にむけて記憶を巡らせていたが、やがて数日前のできごとに思い当たる節があったようだ。
 英語とはまるで違う発音で「Verzeihung」と呟いた。
「自分でもよく分からないが、咄嗟の出来事があると日本語や英語より先にこの言葉が出てくるんだ。日本語で〝ごめん〟という意味だが……不思議だろ」
「うん」と真一は素直に頷いた。よく考えるとこれは奇妙なことだ。フィアスはアメリカで育ったはず。咄嗟に出た言葉が英語ならばともかく、ドイツ語であるというのはおかしい。そしてそれ以上におかしいのは、フィアスが緊急時に「ごめん」という謝罪の言葉を吐く謙虚な気持ちを持ち合わせていた事だったが、そのことについては深く考えないこととする。
 確かに奇妙な話だが、どこかで聞いたドイツ語がたまたま話グセになってしまっただけかも知れないし、フィアスにとっては英語よりもドイツ語の方が、言語的な相性が良かったのかも知れない。その原因を論理づけようとすれば、いくらでも説明できる。真一が思ったことを口にすると、フィアスも「どうでもいいことだ」と切り捨てた。
「それよりも、笹川の後継ぎ問題の方が今は重大だろ。お前の選択によって、こちらのガード方法も変わるから、早いうちに決断を下してもらえると助かるんだが……このまま、笹川組の後を継ぐのか?」
「うーん、それを今悩んでるだよなぁ……」
真一は額に手を当てながら静かに言葉を続ける。
「須賀濱高校一帯までが一応じーちゃんのシマとされているんだ。そこで立てこもり事件が、〝一悶着〟が起こったわけだろ? 犯人のヤクザは笹川組とは無関係の奴らだったけど、そんな連中がのうのうとシマを荒らすことができたのは、自分の力が弱まったせいだって、じーちゃんは思ってるらしいんだ。それに他の組の奴らがこの事件を聞きつけて、須賀濱の一帯を渡せって脅してきてるらしい。じーちゃんがその管轄の面倒を見切れなくなったから、若い奴らが代わりに管理してやるんだってさ。だけど、うちのような古参の組織が、昨日今日で出来上がった新参者に土地を受け渡すことになったら、それこそ長年築き上げてきた名声は地に落ちちまう。だから、一刻も早く、後を継いでもらわなければ云々……」
真一は後頭部を掻きむしりながらうんうん唸っていたが、やがて大きくため息をついて「理屈は分からないわけではないんだけどさ」と吐き捨てた。

 暫く流れていた沈黙を破ったのは、携帯電話の振動音だった。それまで真一は身体を前へ傾けて両手を膝の前で組んだ状態で、苦痛に耐えるように目を閉じていたが、右ポケットの振動を感じて、びくっと肩を震わせた。
「じーちゃんだったら、ヤだな」
呟きながら、真一が電話に出ると、電話先の主は齢七十五歳の老爺ではなく十七歳の高校生だった。
 今まさに対峙しているかのような威勢の良い声で「元気かー?」と投げかけてくる荻野茜は、立てこもり事件から一週間も経っていないのに、いつもと変わらない調子だった。立てこもり事件の後、一日入院させられたことや、警察の事情聴取が丸一日も掛ったこと、強制カウンセリングに今も通わされていることなどを憤慨とともに訴えた。真一もいつもの調子を装って一、二分、茜と話をしていたが、やがて携帯電話をフィアスの方に投げてよこした。
「お前に代われって」
「何故?」
「知らない。何か用事があるんだってさ」
訝りながらフィアスが受話器を耳にすると、都会の喧噪を吹き飛ばすかのような荻野茜の溌剌はつらつとした声が聞こえてきた。
――兄ちゃん元気か? この前は助けてくれてありがとう。あの時はうちも、さすがにビビってしもたわぁ。
「そうか。それは大変だったな。で、何か俺に用があるんじゃないのか?」
――兄ちゃん、ホンマに無駄がないなぁ。
茜は受話器先で笑った。
――ほな、単刀直入に言うけど、今日、親父が非番なんや。〝3・7事件〟の、当時の状況を聞くなら、今やで。
「会わせてくれ」
間髪入れずにフィアスが答えたのが面白かったのか、茜は再び笑った。今度は、地を揺るがすような哄笑こうしょうだ。
 フィアスは眉根を寄せながら、茜の笑いが治まるのを待った。今日の茜はひどく機嫌がいい。こちらが違和感を覚えるほどに。
「……交換条件があるのか?」
声を一段低くしたフィアスとは対照的に、茜の声は一オクターブほど高くなり、納まりかけていた笑いが少女特有の密やかな含み笑いに変わってゆくのだった。


茜との通話を終えると、フィアスは折りたたんだ携帯を真一に返した。真一は先程の「交換条件」という言葉を聞いてから、ずっと疑問符を浮かべた表情でフィアスを見ている。
「交換条件って――」
「一度、ササガワの家に行ってみたらいい」
真一の言葉を遮って、フィアスは言った。
「あの家の中なら〈サイコ・ブレイン〉も攻撃できない。腰を落ち着けて、ササガワキイチとじっくり話し合ってきた方がいい」
フィアスはソファから立ち上がると、冷蔵庫に向かった。冷蔵庫の上に車のキーが置いてあるのだった。BMWのキーをポケットにしまうと、フィアスは部屋の入口へと向かう。
「笹川邸まで送ろう。連絡をくれれば、また迎えに行く」
真一は何か言いたそうな顔で口をもごもごさせていたが、やがて観念したようにソファから立ち上がった。
ただホテルの地下にある駐車場でBMWに乗り込む直前、真一はぼそりと呟いた。
「いっつも俺は仲間外れなんだから」