何でも屋の階段を下りて、陽光の差す通りに出る。クーラーの効いた何でも屋から出ると、増して暑さが身に染みた。この暑さのせいで、通りを行きかう人間もあまり多くない。あちこちから蝉の渇いた鳴き声が聞こえてきた。都会の喧騒もうるさい羽虫の音に全て掻き消されている。うるさすぎて逆に無音を感じさせる。
 昨日通った並木通りを抜けて、今度は国際センターとは反対方向の桜木町方面へと向かう。みなとみらいほどの賑わいは幾分か軽減されつつあるが、高層ビルの群れはちらほら見える。やはりこの暑さのためなのか、人が少ない。
 その通りは「昼」というよりも「夜」を専門とする店がひしめきあっていた。スナックやBARや屋台風の飲み屋やホテル……何でも屋のある通りと似ていて、それよりはずっと閑寂として、荒廃した雰囲気を纏っていた。夜であればそれなりの人で賑わうのだろうが、昼前だからこそ、この小さな娯楽郡は人っ子一人おらず、蝉の声も遠くから聞こえてくばかりだった。
「この辺りでいいか」
フィアスは小さな声で独りごちた。そのまま、その通りを普段どおりの速度で進んでいく。彩も同じ歩調で隣を歩いていくが、十数mも進むとたまりかねた様子で、フィアスを見上げた。
「ねえ、アルド。一体、どこに行くの?」
「出来るだけ人のいない所に行きたかったんだが……まだ誰か・・の気配がするな」
「誰? まさか、〈サイコ・ブレイン〉?」
それを聞いて、フィアスは微かに苦笑を返しただけだった。
 スナックとよく分からない店の間に路地裏を見つけると、フィアスはそこへ足を向けた。路地裏と言っても何のことはない、大人が三人肩を並べて入れるかどうかの狭い通路である。通路のはるか向こう側には緑色のフェンスが張られており、人の出入りができないようになっていた。2つの店を作る際、設計ミスで出来た細道のようだ。壁は一面煉瓦造りで、古びた指名手配犯の人相書きや、無許可に貼られたアマチュアライヴのポスターがちらほら目に映る。
「ちょっと、アルド……この先、行き止まりじゃない……アルド!」
躊躇っている彩の手をとり、強引ともいえる勢いで路地裏に連れ込むと、フェンス近くの壁に彩の体を押し付ける。彩の頭のすぐ横に片手を添えて逃げ道を塞ぐ。その一連の流れは獣のように素早く、抵抗を許さない圧力があった。
「やっと、二人きりになれたな」
彩の目線まで背をかがめて、フィアスは睨んだ。彩の目は恐怖に怯え、涙が滲んでいる。顔の間近に置かれた手をのけようと彩は手を伸ばしかけたが、それもフィアスの片手に撥ね退けられた。憤慨した彩が何かを言うより先にフィアスは言葉を放った。
「君は誰だ?」
その問い言を聞いて、彩は驚きを隠そうともせず目を見開いた。そして、困ったように笑みを浮かべる。突然の質問に怒りや悲しみといった感情よりも、まだ驚きや困惑の方が一歩先に出ているようだ。わずかに開いた口の隙間から、かろうじて言葉を発する。
「何を、言っているの……アルド。私は、龍頭彩よ。まだ、私を疑っていたの?」
フィアスにちゃんと聞こえるように彩は一字一句をはっきりと発音する。話しているうちに段々とこの状況を自覚してきたようだ。彼女の大きな瞳には今にも零れ落ちそうな涙が浮かぶ。
「ねえ、アルド。私は、貴方に会えて、嬉しかった。でも再会を喜んでいたのは私だけだったの? 貴方はずっと私の事を疑っていたの? 今だってそう。どうしたら貴方は、私の事を信じてくれるの? アルド、お願い、私を信じてよ……」
切望の濃い瞳に大粒の涙。これにはフィアスも目を逸らさずにはいられなくなり、わずかに視線を自分の足元へ走らせる。低く、消え入りそうな声でフィアスは言った。
「死者は蘇らない……アヤは死んだんだ。君は一体何者なんだ?」
ショックを受けた顔のまま彩はかたまる。涙がするりと頬を滑る。形の良い顎の先まで水は滴り、地面へと落ちた――瞬間。
 洗練された素早い動きで右腿に手を滑らせると、仕込まれていたホルスターから銃を引き抜いた。反射的にフィアスも懐に忍ばせておいた銃に手をかけるが、わずか1秒にも満たない刹那の差で彼女の方が速かった。グリップが勾玉のように歪曲している小型拳銃をフィアスの喉に突きつける。これには、フィアスも隠し持っていた銃を地面に落とし、ホールド・アップをするしか術がなくなった。
「デリンジャーか。良い趣味をしている」
「うふふ、太腿にデリンジャーなんて素敵でしょ。装填そうてんされてるのは口紅じゃなくって、ホンモノの銃弾だからね」
目にまだ涙を浮かべつつも、女は笑う。そこには、彩の落ち着いて物静かな雰囲気はなく、大胆で攻撃的で、そして少々艶美な、ちょうど昨晩のキスのような空気があった。銃口がフィアスの喉仏をなぞり顎に到達する。彼女は背伸びをしてフィアスの耳元に口を近づけると、秘密めいた声色で囁いた。
「女だからって油断したわね。BLOOD THIRSTYさん。それとも、彩と同じような外見のあたしに銃を向けるのは、躊躇いがあったのかしら」
くすくすと小悪魔的な笑いを飛ばす女。瞳はギラギラと貪欲な輝きをほとばしらせている。目元はまだ迫真の演技を見せた涙で濡れているが、もう零れ落ちるほどではなくなっていた。
 顎の銃口に息苦しさを感じながらも、フィアスは聞いた。
「お前は誰だ?」
「分かってるクセに」
彼女は彩と同じ上目遣いの視線をフィアスに投げかける。
 豹変した性格は、かつての彩とまるで似ていないが、その容姿はどんな整形手術を使っても真似できないくらい類似している……恐らくDNAからして同じなのだろう。
ツインズ双子か。オーソドックスな手に騙されたもんだ」
「やっぱり、彩から聞かされていなかったみたいね……あたしの名前は龍頭凛りゅうとうりん。彩とは一卵性双生児なの。そっくりでしょ? まあ、真似てはいるんだけどね」
彩と同じ外見を持った違う魂――凛は興味深げにフィアスを見据えた。悪戯が好きそうな、好奇心に溢れた瞳……丁度5年前、人を驚かせた時の、したり顔をした彩のように。
「ねぇ、あたしが彩とは違う人間だって、どこで気づいたの? ちょっと教えてくれないかしら? 今後の参考までに」
軽い言い方とは裏腹に銃を押し付ける力が強くなる。少しでも彼女の意に屈しようとしない態度を取ろうものなら、容赦なく頭を吹っ飛ばすというサイン。仕方なくフィアスは答えた。
「アヤかどうかは、会った瞬間から疑っていた。胸のタトゥーは〝信憑〟と言うよりも、〝欺瞞〟に思えた。決定的にアヤと違うと確信したのは、昨晩のキスだ」
フィアスは一息ついて、微かに笑った。
「……殺されるかと思った」
「さすがね、色男。そう思ってもらえたなら、本望だわ」
凛は面白くてたまらないと言った感じで、甲高い声で笑う。
「あたしたち、体の相性、いいのかも」
「やめてくれ。君には二度と近づきたくない」
「あら、恋の魔法が解けちゃった。つまらないわね」
 フィアスは路地裏から見える長方形の空へ視線を向けて凛の話を聞いていたが、やがて溜息を一つつくと、呆れた顔で凛を見、そして突きつけられた銃を見下ろした。顎にあてられたデリンジャーの太いマズル。始めは冷たく感じた黒い金属も、今は己の体温で生温かく感じている。
「そんなことより、これからどうする? 俺を殺すのなら、さっさと片づけたほうが良いんじゃないか? ……いつ形成が逆転するか分からないぞ」
フィアスは軽く目線を路地の入り口に走らせただけだったが、凛はそれを見逃さなかった。銃口がさらに強く肉を圧迫する。凛はその名前どおり、凛とした声でぴしゃりとフィアスを叱りつけた。
余所見よそみなんてやめて。あたしだけを見なさい。本当に殺しちゃうわよ」
むっとした表情で彼女はフィアスを睨む。「なんて女だ」と思いながら、フィアスは言われるがまま、凛の真黒な瞳を見据えると、やっと彼女の機嫌は元に戻ったようだ。目を細め、ふふんと満足そうに鼻を鳴らし、凛はデリンジャーを少しだけフィアスから離した。
彩とは違い、凛は暴力的な独占欲が強いようだ。名前通りの性格だ、とフィアスは感じた。凛とした声と瞳には目に映るもの以外は受け付けない、という現実的な物の考え方があった。〝感覚〟や〝雰囲気〟で物事を捉えようとする傾向が強かった龍頭彩とはまったく違う。鏡に映したようにそっくりな双子も、性格までは酷似しなかったらしい。
「あのねBLOOD THIRSTYさん、〈サイコ・ブレイン〉は貴方を潰しに掛かってるわよ。あたし、〈サイコ・ブレイン〉に飼われてるから、彼らの動向がよく分かるの。あいつら、相当怒ってるみたい。そろそろ始末しておかなきゃって、考えてるみたいなのよ。あたしが貴方に会いに来たのはね、貴方が死んじゃう前に一度話がしてみたかったから……彩が生涯愛した男はどんな人なのか、見てみたかったから。貴方、予想以上に良い感じ。死ぬにはすごく惜しいわ」
凛はフィアスの首筋に顔を近づけてキスをした。昨晩の巧いキスと同様、フィアスは首筋に今まで誰ひとりとして感じたことのなかった、特殊な熱を感じた――同様に、暑苦しさも感じたが。
 長い時間をかけて凛が首に接吻をしている間、デリンジャーの銃口はフィアスの顎から外れ喉元に移動していた。喉に押し付けられた硬い銃口と柔らかい唇の感触。身動きの取れない状況で、フィアスはぼんやりとどちらの痕が強く残るだろうか、と下らない事を考えていた。願わくば、どちらとも、残って欲しくない。
 やがて凛はフィアスから身を引き離すと、少しだけ舌を出してにやっと笑った。
「あたし、貴方の事、気に入っちゃった。また会いに来る。それまで〈サイコ・ブレイン〉に殺されないようにしてね。彼らは色々なところから、色々な人物になり済まして、貴方を見ている。殺しのタイミングを伺っているの。気を抜かないことね」
凛はデリンジャーをフィアスに向けたまま、一歩また一歩と、慎重に後退していく。路地裏の入り口まで出ると、一瞬だけ右側に銃を構えて、またフィアスに向けた。猫のように大きな瞳は満足げに細まっている。
「またね、BLOOD THIRSTYさん」
デリンジャーを構えた女王クイーンは、愉悦な頬笑みを残し、姿を消した。


 凛のいなくなった路地裏は、新たな静寂が腰を下ろしていた。フィアスは左の首筋をシャツの袖で拭いながら暫く凛の出て行った路地の入り口を眺めていた。真夏の白昼夢にはぴったりの、けばけばしい色の女だ、と思いながら。
 独占的な態度で自分勝手なことを喋り続け、デリンジャーを突きつける傍ら首筋に噛み付く――ここまで大胆不敵な女は、未だかつてお目にかかった事がない。悪く言えば、「凶暴」。良く言えても「珍貴」。どちらにせよ、手ごわい敵には変わりない。
足元に落ちていた銃を懐にしまい、フィアスは心身共に疲れきった様子で言った――路地の入り口に向かって。
「尾行ならもっと上手くやれ、ホンゴウ」
「バレてたか」
おずおずと路地に姿を現した本郷真一は大きく溜息をついた。
「初めて女に銃を向けられた……怖かった」
去り際に凛が右側に構えた銃口の先端には真一がいたのだ。真一は額の汗を拭うと、路地の壁に背を任せて座り込んだ。フィアスも壁に体を預けると、取り出した煙草に火をつける。気がつけば、掌や額にべっとりと汗をかいていた。
「それで、彩と見せかけていた龍頭凛は〈サイコ・ブレイン〉の仲間だったってわけか」
「リンは〈サイコ・ブレイン〉に飼われていると言っていた。恐らくあの女は、組織専属の娼婦だ」
凛にキスをされた首筋を改めてフィアスは拭う。シャツの袖を見ると、凛の口紅で赤く汚れていた。血のように赤い色をしている。帰って、自分の首を鏡に写すのは少々度胸がいる。
「死んだ恋人にそっくりな双子の彼女は、立ち向かうべき組織の女か」
真一はそう言いながら立ち上がった。軽く伸びをすると両手を頭の後ろにつけて、空を見上げる。
「アンタ、相当女運ないんだなぁ」
言われなくとも、それはフィアス自身、自覚するところだった。