東京湾に夕日が沈む。ブルーグレーの海面は、夕日の熱いオレンジ色が混ざって、ダークグリーンになっていた。黒よりも濃く感じられる漆黒の緑。太陽光線がもたらす黄金の時間も、今日はほんの一瞬に思えた。気が付いたときには空はもう薄暗く、紫とピンクと藍が混ざり合うポップな寒色に変わっていた。捉えどころがなくおどろおどろしい、子供の見る悪夢の色。
「私たち、またやり直せないかしら?……もう5年前には戻れないの?」
太陽がまだ頭上の位置にあった時に彩が言った台詞を、フィアスは上手く滲ませた。その場凌ぎのから返事をするでもなく、かといって毅然と首を横に振るでもない。煙草だけは吸いたくてたまらなかったが、それもどうにか自重した。
 ただ黙って、自分の目と同じ色だという東京湾の水平線をずっと見ていた。彩も隣で、自分よりは数十センチ低い目線から東京湾を眺めていた。公害により汚染された湾の波音が、どこか尊いもののように感じられた。
 寄せては返す波のゆるやかな音に同調させるように、フィアスも静かに告げた。
「俺も、できることなら、昔のような関係に戻りたい。いや、5年前よりも、もっと深く分かり合いたいと思ってる。 だが、アヤがいなくなってからの5年間を全くなかったことのようには、扱えない。アヤの言葉を借りれば――……順応か。アヤが帰国後の生活に順応してきたように、俺も今の環境に順応して生きている。仕事も変われば、人間関係も変わった。俺は、自分では自覚がないが、アヤの思い描いている5年前の俺とは違っていると思う。俺と同じように、アヤも5年前の、俺が知っているアヤとは違うはずだ。俺たちは、そう簡単に、元には戻れないんだ」
 あらかじめ、まだ彩が生きている事が信じられないから、なんとか上手くぼやかす言い方はないかと考えての言葉だったが、喋っているうちに本当はそういうことなのだろうと思えてきた。
 レールから外れた運命が早急に元に戻るということは有り得ない。例え、彩が彩である確かな証拠が上がり、自分もこの女性をかつて自分が好きだった彩だと認めることになったとしても。空白の5年間はやはり1日や2日で穴埋めできるものではない。
 彩は東京湾から今度は青空を仰いだ。
「逆に言うと、それは時間が経てばまた分かり合えるかもしれないということで、いいのかしら?」
「ああ」
「私はいくらでも待てるけど、私には貴方を束縛しておく権利なんてないから、途中でウンザリしたら黙ってないで言ってね」
「ああ……ないことを祈ってる」
自分では妥当な答えを出したつもりだったが、いかんせん女の気持ちはよく分からない。彩の顔は無表情で、この答えに満足しているのか、不満に思っているのかすら分からなかった。
いくつになっても、この手の理論は難しいと思った。
否、これは自分の言うところの「理論」なのではなく、彩の得意分野とする「哲学」と銘打った方が的確なのかも知れない。
 きっと十年後も二十年後も、似たような状況に陥れば自分は悩んでしまうだろう。


日は沈んで夜になった。

 横浜港近辺のレストランで適当に食事を取り(その時に葡萄酒が出たが、日本産であるらしくフィアスにはぶどうジュースを煽っているような感覚がした)、帰りの車で一息ついた。場所は、昼間来たベイブリッジ近くの駐車場で、相変わらず人気ひとけがなかった。車もフィアスのBMW以外、一台も止まっていない。アスファルトに覆われた広いスペースなので駐車場に見えたのだが、本当は違う用途に使うのかもしれない……長居をしない方が良さそうだ。
 東京湾は今や暗黒の沼と化し、遠くには旅行客船の小さな明かりがちらほらと見えるだけだった。左側の、ベイブリッジのシャンパン色のライトアップに目が眩む思いがした。両目から入る光の量が違うのか、左目だけがネオンライトを痛く感じる。日が照っている時とは違う横浜のもう一つの顔。朝よりも眩く、どこか無機質な感じがした――ライトに浮かび上がる橋の白色がそう思わせるのだろうか。
フィアスは手首のロレックスを見た。短針は9、長針は5をさしている。
「帰るか」
「待って、もう少しだけ」
彩は手動のハンドルを回し、停車した車の窓ガラスを開けると外のネオンライトを見た。暑かった昼間も、夜になると幾分か涼しくなった。前線の影響で、八月の下旬くらいの気温になっているらしかった。カーウィンドウを通じて吹いてくる風も水分を含んでいて涼しい。
 ネオンライトごと東京湾景を見渡すと彩はやっと満足したのか窓を閉めた。
エンジンの掛かっていない車内はうす暗く、彩の表情は読めない。音楽もかけていないので、カーウィンドウで波音もシャットアウトされたこの空間は完全に無音だった。耳を澄ませば、相手の息づかいも鼓動も感じ取れてしまいそうなほど静かだった。
「……泣いているのか?」
思案したでもなく、ふいに口をついて出た言葉。言ってからフィアスは自分の一言で空気が思わしくない方向へ動きだすような気がしてならなかった。陳腐なだけで、甘くもない台詞が与える、甘い感傷。
 同情や優しさや興味・好奇心から湧き起こる、情動的な人間の本能。
 暗がりから伸びた2本の白い手がやけに幻想的に見えた。ゆらりとした動きで柔らかい2つの掌がフィアスの両頬をなぞっていく。眠くなりそうだった。どうしていつもこの掌はひんやりと心地良いのだろう。昔も今も変わらない、彩のもたらす心地よさが胸底から滾々と湧きあがってきて、フィアスは思わず目を閉じた。顔から首筋の頚動脈の辺りを優しくなぞり、彩の手がうなじにまでのびると、そのまま助手席に引き寄せられる。ゆっくりと時間をかけて誘われ、気がついたときには彩に唇を重ねていた。
彩はすぐにキスをやめると、フィアスの頬に自分の頬を摺り寄せるようにして耳元で囁いた。
「お願い、わたしを、助けて」
頬に水の冷たさを感じたので、フィアスは彩がやはり泣いているのだと分かった。しかし何故泣いているのだろう。自分を軟禁し、5年もの歳月を奪った〈サイコ・ブレイン〉に対してか、それともより・・を戻すかどうかの質問に不相応な答えを出した自分に対してか?
それは、彩だけにしか分からない。
黙っていれば良かったものを、こんな展開の引き金を引いてしまったのは自分の一言だ。眠気がたなびいた頭に、淡い後悔が渦を巻く。
「苦しいの、アルド。わたしを、救い出して」
 何か言う隙も与えずまた彩は唇をあてがう。先程のなおざりなキスとは違い、今度は呼吸を乱されるくらい長いものだった。小一時間前に飲んだ葡萄酒が彩の口の中で蘇る。店で飲んだ味とは違い、彩の中で精製されたそれは酒に強いフィアスでも酔ってしまいそうなほど濃厚だった。
 危うく夢うつつな状態に沈みそうになったので、フィアスは心の中で自分に喝を入れて覚醒する。キスくらいで理性が吹っ飛ぶなんてどうかしている。十代の若造でもあるまいし、その手の抑制力ならついているはずなのに。何故、止められない。
 互いに探り合うようなキスをしながら、フィアスは違和感を覚えていた。巧い、と思った。彩は5年間でキスが格段に巧くなっている。それに、なんだか暴力的だ。サディスティックで、主導権は彼女の方が握っていて、官能の奥底を刺激してくるようなテクニックを隠し持っている匂いがする。
とにかく、全てが刺激的で荒っぽい。そして艶美なのである。

違う……やはり、何かが違う。

 首の後ろに回されていた彩の手がシャツのボタンに移動し、ここぞとばかりに彩が運転席に身を乗り出してきたので、フィアスは小さな唇から身を引き離した。
「!」
 バランスを崩した彩が運転席の窓の方向につんのめったので、慌てて受け止める。
 腕の中で彩はすぐにうつ伏せから仰向けに体をねじると、漆黒の瞳を大きく見開いてフィアスを見た。自分の予想していた答えとは違うことに対する驚愕の瞳。何が起きたのか分からないという顔をして、チックの精神病患者のように絶えず瞬きを繰り返している。
「これ以上は、やめておこう」
彩は戸惑いの表情を浮かべた。何を言われたのか理解していないように、曖昧に笑う。はにかんだ笑顔は5年前と同じように両サイドに笑窪ができていた。
「あ、うん……そ、そうね。そうよね……」
彩がやっと慌てふためいたのは、それから数秒経ってからだ。大きな黒い瞳が左右に泳いでいる。
「そろそろ、体を起こしてもいいか?」
「あっ、ごめんなさい」
早口で捲くし立てると、フィアスに持ち上げられて彩は上体を起こした。そのまま顔を俯かせながらすごすごと助手席に戻る。彩の体が萎縮してやや小さくなり、心中で恥ずかしさに身悶えているのは明らかだった。
「帰るか」
取り澄ましてフィアスが言うと、彩は垂れた頭を微かに上下させる。聞こえるか聞こえないか瀬戸際の声で、「うん」と呟く。そんな彩をフィアスは懐かしく思った。
 5年前と同じ照れた仕草は彩そのものだ。

やはり、彩は彩なのか。
自分が愛していた龍頭彩か。
……分からない。
ただ、キスは語っている。

彼女は5年後の世界に、自分よりうんと上手く順応していると。