市営図書館は年齢層に関係なくかなりの人で賑わっている。夏休みの宿題を終わらせるためか、普段は絶対にこんなところには足を運ばないであろうやんちゃな小学生が2人、足元を駆けていった。その小学生同様、真一も図書館になど立ち入った事がない。「読書」といえば専ら漫画ばかりなのだ。それも、闘魂燃える少年漫画。
 B5版の用紙に陳列された活字などを眺ようものなら、脳がスリープ状態に突入するくらいの拒否反応が出るほどに、それは筋金入りである。
 しかし今日はそんな事を言ってはいられない。何せこれから十数年前に起こった殺人事件の記事を調べ上げていくのだから。
 勿論、この図書館にある膨大な量の新聞記事の中から、たった一人で。
 図書館に備え付けてあるインターネットにその事件に関するキーワードを打ち込めば、あっという間に過去のニュースが調べられてしまうのだろうが、そういったログの残りそうなものは使いたくなかった。その筋に詳しいメカニックが、逆アクセスをしたりして、その事件の記事ページにアクセスしてきた人間が誰かを突き止めてしまうということもありうる。
「参ったなぁー……簡単に、あんなこと言うんじゃなかったな」
 新聞記事のファイルやら郷土資料やらが置いてある、所謂「調べもののコーナー」から十数年前に起こった事件記事を調べること60分。早くも真一は音をあげた。今朝フィアスの前で、「〈ドラゴン〉の連続殺人事件を調べに図書館に行ってくるよ」なんて大口を叩いたことを激しく後悔した。
 机の上には調べ上げた事件記事のファイルとこれから調べる事件記事のファイルが2本の柱となって積み上げられている。それでも、左側の調べ上げた事件記事のファイルの高さは、右側の未調査ファイルに比べると5分の1にも満たない。ファイルの数にすれば、わずか3冊だ。残りは15冊以上……過去十数年間に渡って起こった事件の数は相当な量だということが伺える。
「無理だぁーっ!」
無駄に大きな声を上げると、近くにいた女子中学生が2人、驚いた顔で真一を見た。真一は慌てて分厚いファイルに目を落とす。新聞と睨み合うこと5分、今度は悲鳴を上げながらこのファイルを燃やしてしまいたい衝動に駆られる。改めて、自分がデスクワークには向いていないのだということが確認できた。真一は頭をグジャグジャと掻いた。
「こういう仕事は、俺よりもフィアスの方が向いているような気がするなあ……」
 仕事のためなら魂をも売る覚悟のBLOOD THIRSTY№2を呼べば、ストレスを煙草で押し殺し、黙々と調べ上げてくれるだろう(その前に、フィアスが日本語を読めるのかどうかは不明だが、思慮に入れないこととする)。
 しかし彼は今、捜査も兼ねたデート中だ。5年間、龍頭彩と文字通り「生き別れ」になっていたわけだから、それなりに積もる話もあるだろう。その中に水をさす事がどれほど「大人のマナー」違反なのかということは、恋愛経験そこそこの二十歳といえど、真一にも理解できている。それ故、フィアスに助けを求めることは出来ない。
「どうすっかなぁ」
唸って考えること3分、最終手段だ……、と呟き真一はポケットからダークブルーの携帯を取り出した。着信履歴の6件目、1週間ほど前に掛かってきた電話番号にリダイアルする。1回もコール音が鳴らないうちに相手が電話に出た。ネコもビックリの早業である。
「何やー、真一かー?」
電話先からはうだった声が聞こえた。いつもの底抜けにパワフルな彼女らしからぬ声に真一は少し拍子抜けする。大阪仕込みの威勢の良さも、この暑さには一溜まりもないのか。
「どうした茜、しおらしい声出して。お前らしくねぇな」
「うるさい、余計なお世話じゃボケぇー」
元気がないが、それでも茜の噛み付くような言葉遣いは変わらない。苦笑しながら真一は続けた。
「今、暇か?」
「え? うーん……暇のような暇じゃないような?」
「何だよそれ。暇なら、ちょっと助っ人に来てくれねぇか?」
「……‥何の?」
暫しの逡巡の後、数段音程を低くして茜が尋ねる。めったに掛かってこない真一の電話、そしてその内容にいささか警戒しているようだった。二言返事で安請け合いしない慎重深さは、さすが刑事の娘と言うべきなのだろうか。
 真一は片手で電話を持ちながら、もう一方の手で新聞記事のファイルを捲る。……この記事は2年前に起こったコンビニ強盗殺人事件の記事だ。もう少し時間を遡らなければ。
「ちょっと十何年か前に起こった殺人事件の洗い直しを手伝ってくれないかと思ってさ。お前、そういうの好きだろ。お昼のサスペンスドラマ、録画して見てるくらいだもんな」
「……なんでアンタそれ知っとるん?」
電話先からひんやりした温度が流れ込んでくる。青天の霹靂へきれき。茜の声は低く、間違いなく怒っていた。
あれ? これ言っちゃダメだったかな。
以前、茜の父親から聞いたことを何気なく口にしたのだが、それはNGワードらしかった。誰にも知られたくない趣味、というやつだろうか。
「ま、まあそんなことはどうでも良いとして……」
真一は慌てて話の方向転換を試みる。ここで、頼もしいサスペンスマニアの助っ人にへそを曲げられてしまっては大変だ。
「どうしてもお前の助けが必要なんだよ」
「えー」
「お前にしか、頼めないことなんだ。なあ、頼むよ。なんかお礼するからさぁ……」
嘆願の気持ちも込めて食い下がると、電話口で茜の怒りが段々と和らいで行くのが分かった。うーっという唸り声が、やがてうーんという渋りの声に変わっていく。泣き落としに弱いヤツだなぁ、と心中でほくそ笑みながらも真一が最後の一押しをかけると、茜は躊躇いながらも「うん」と言った。
「何やよう分からんけど、アンタがそこまで言うんなら協力してやらないこともないわ。その代わり、タダとは言わせん」
「?」
「うちのお願い事、一つだけ聞いてぇな」
茜らしくない優しく間延びした語尾に、思わず真一の背筋に寒気が走った。


 その願い事が何なのかを告げずに、茜が図書館に姿を現したのは、電話をかけてから20分後だった。夏休みだからか、いつもの青チェックの制服を脱ぎ捨て、白いカットソーに膝丈のデニムパンツというラフな格好だ。頭だけはいつものように長いポニーテールを結っている。アーモンド型の大きな目を怒ったように吊り上げているのもいつもどおりだった。そういえば、コイツの怒っている以外の顔を見たことないな、と真一はぼんやり思った。せっかく可愛い顔をしているのに、もったいない。
 茜はズカズカと大股で図書館の自動ドアを抜けると、図書館のロビーで待っていた真一の前にスクールバッグをドサッと置いた。これは、茜が通学用に使っている学生鞄で、上質な馬の皮に金色の文字で高校名が記してある指定鞄でもある。茜は手うちわで首筋をパタパタとやった。
「あー、暑い暑い!ホンマ日本の夏はどうなっとんねん。これじゃあ、仕事も何も手に付かんわ」
「お前、段々親父さんに似てきてるぞ」
口の端を吊り上げながら愚痴を言う茜の仕草は、煙草を銜えさせれば父親である荻野刑事にそっくりだ。茜はフンと鼻を鳴らすと真一を睨んだ。
「失礼なやっちゃな。うち、親父のような刑事になりたいけど、親父そのものになりたいとは思わん。そんなことより、この鞄持ってぇな」
言われたとおりに真一がスクールバッグを担ぐと、小振りな鞄なのに予想外に重かった。数字にして3㎏はありそうだ。無計画に肩に鞄を担ぎ上げたので、真一はその重さによろめいた。危うく、入り口付近の絵本の本棚に突っ込みそうになる。
「重っ!」
慌てて体制を立て直すと、すぐに鞄を床に置いた。今度はドン! という鈍器が振り下ろされたような音が立つ。この音に反応して、近くにいた利用者が数人、真一の方を振り返った。
目の前の茜は呆れ顔で、荒く息を付く真一を見ていた。茜は腰に両手を当て、小さな溜息を吐き出した。
「そんくらいの重さで情けないなぁ。男ならもっと根性見せぇ」
「な、何なんだよこれ!こン中、ダンベルでも入ってんのか!?」
「そんなわけあるかいな。勉強道具やて、勉強道具。学生の日用品やんか」
茜はにんまりと笑うと、鞄ごと真一を置き去りにして、「調べもののコーナー」の方へすたすたと歩いていってしまった。その後姿にはここへ呼び出したからには、荷物を持つくらいのサービスをしろ、という暗黙の指示が載せられている。
「い、いじめだ……」
呟きながら、この凶器にもなりうる鞄を持ち上げると真一は茜の後を追った。
 茜は真一の座っていた席の向かい側に座った。片足をぶらぶらさせながら、椅子を浮かせて辺りをキョロキョロと見回している。真一が嫌味も込めて、わざと大きな音を立てて鞄を机の上に置くと茜は言った。
「今日は、あのホストの兄ちゃんはおらんのやな」
何故「ホスト」なのかは知らないが、フィアスのことを言っているらしい。真一は頷いた。
「ああ、アイツは恋人に会ってんだよ。ホラ、昨日茜が連れて来たあの人。あの美人さんは、実は5年前に離れ離れになっていた昔の恋人だったんだ」
茜は目を丸くして口をパクパクさせた。そしてすぐに、「ホンマに!?」と素っ頓狂な声をあげた。
「嘘も何もあるかよ。だからあの美人さん――彩さんは俺のことを〝知り合いの知り合い〟って言ったんだろ。フィアスを介して、俺たちは知り合いってわけだよ」
「なるほど、そう言うことやったんか」
茜は驚愕した瞳をコンマ数秒の速さで溢れんばかりの星に満たし、輝かせた。色気もそっけもないといえど、茜も華の女子高生。例に漏れず、その手の話には目がないようだ。熱に浮かされたような顔でうっとり宙を眺めている。
「生き別れになってから、数年ぶりの再開か。なんやドラマチックやなぁー……あの兄ちゃんも澄ました顔して中々隅に置けんヤツや」
 確かに、ドラマだな。なにせその兄ちゃんは、今、恋人が本物かどうかの猜疑に悩まされているんだから――真一は喉元まで出掛かった言葉を飲み込んだ。
 いくら、刑事の娘でサスペンスドラマが好きな茜でも、〈サイコ・ブレイン〉が絡んでいるかも知れない事件のことを話すのは危ない。この〈ドラゴン〉の起こした殺人事件を調べることも〈サイコ・ブレイン〉に関連しているといえば否定できないが、こればかりは仕方がない。
 やがて茜は気持ちを切り替えたのか、椅子に座りなおした。十数冊つまれたファイルの、高さ1mはありそうな柱を見上げる。
「それで、この山のようなファイルからお目当ての事件記事を見つければいいわけやね。どんな事件なん?」
「えっと――或る男が横浜から東京にかけて十数人を殺したっていう凶悪事件なんだ。今から十数年前の話で、その犯人は元暴力団組織の幹部で……」
フィアスが調べ上げた〈ドラゴン〉の所業を思い出すままに真一は告げる。
茜は暫くふむふむと話を聞いていたが、やがて考え事をするように十数秒宙を仰いだ。そして閃いた表情で、
「それってもしかして〝3・7事件〟とちゃうんか?」
「知ってんのか?」
茜は当たり前だと言うように頷いた。
「だってその事件、うちの親父が担当したのやもん」
「何だって!?」
声を荒げ、身を乗り出した真一にやや驚きながら茜は言う。
「落ち着け真一。担当した言うても、捜査に人数足らんかったらしくて、無理やり捜査班に加えさせられただけや。今になってもそん時の愚痴、よう聞かされるわ」
 確かに、一人の人間の手によって十数人が殺された大事件に、若かりし頃の荻野刑事が絡んでいてもおかしくはない。否、荻野刑事の管轄である横浜で起こった事件なのだから、何かしら関わっていると考えるほうが妥当だ。
これは、新聞記事で調べるよりも当時を知る人間に話を聞いたほうが、より確かな情報が得られるのではないか。
「今から、荻野警部に会えないか?」
生唾を飲み込んでから真一が尋ねると、茜は即座に首を振った。
「親父は今日も警察署や。ちゃんと仕事してるかどうかは知らんけどな」
もしかしたら、警察署の一室で煙草を吹かしているだけかも知れないが、警察署にいる間は会うことは難しいと思う、と茜は言った。今晩帰ってきた時にでも聞いといてやるわ、とも。
そう言われると、真一も大人しく諦めざるを得なかった。
「ところで、なんで今更そんな事件調べとるん?もうとっくに犯人は捕まったんやろ」
「ああ、うん。まあ、色々あるんだよ」
ふーん、と茜は唸りながら、今から18年~20年前の事件をスクラップしてあるファイルを取ると、パラパラとめくった。機械のように目線が右から左へと流れていく。器用にも人差し指だけで、お札を数えるようにページを繰っている。刑事である父親を尊敬し、サスペンスドラマも見まくるくらいだ。ケータイ刑事気分で、日頃から気になった事件記事でも調べているのだろう、調べ慣れしている。茜は独り言をぶつぶつ言いながらページを次々と繰る。
「親父がまだ新米刑事の頃の話やからーこのくらい前の事件やと思うんやけどー……あ。あった」
真一は思わず椅子から立ち上がると、茜の背後に回って記事を覗き込んだ。機械的に茜の唇が動く。
「〝元・暴力団幹部、15人を殺害〟」
茜の指が蛍光灯が反射し白っぽく光っているファイルの表面をなぞっていく。どうやら今の言葉は数ある事件記事の中で一番大きく場所をとっている記事の見出しらしい。茜はその記事に書いてある文章を指でなぞりながら音読した。
「19××年、3月7日――」
だから3・7事件なのか、と真一は思った。
「――午前11時ごろ、横浜市××町で『女性が大量の血を流して倒れている』と110番通報があった。被害者の田中千夏さん(36)は駆けつけた救急隊員により同市立病院に搬送されたが、出血性ショックのためまもなく死亡した。その後も似たような通報が横浜から東京にかけて相次いで報告され、一日のうちで被害者は17人にものぼった。警察はこの一連の事件を同一犯の犯行として捜査を進めたところ、12日未明、元・暴力団幹部である龍頭正宗容疑者(24)が……」
「龍頭、正宗……!」
押し殺したような声でその名前を呟く真一を茜は不審に眉をひそめて見たが、何も言わなかった。その代わり、その新聞記事の最後に乗っている写真に指を当てた。
「これ、犯人やて」
十数年前の新聞と言えば、ちゃんとした情報規制がなっていなかった頃だ。凶悪事件というと、社会的制裁の意味も込めてその犯人の顔写真が大々的に公開されたものだ。この〝3・7事件〟も例に漏れず、丸いフレームの中に写りの良い龍頭正宗と思しき男性の写真が載せてあった。
「これが龍頭正宗……」
フレームに写っている男は、無表情だった。全体的に均等の取れた美しい顔立ちをしており、その鋭い瞳からは聡明さも伺える。どこかやり手のビジネスマンにも見える顔。短く刈った髪は逆立って、一昔前にイギリスで流行したパンクヘアーに似ている。整った顔のパーツはついさきほどまで話をしていた龍頭彩に通じるものがあった……。
茜はじっくりと連続殺人犯の顔を眺め、言った。
「殺人鬼にこんなことを言うのもアレやけど、中々イイ男やんか。何で人殺しなんてことしてもうたんやろなぁ、勿体無い」
「……」
「ちょっと真一、聞いとる?」
茜の威勢のいい声に、ぼーっとしたまま新聞記事を眺めていた真一は我に返った。
「ああ、うん。聞いてる聞いてる」
正直、なんか隣でごちゃごちゃ言っているなくらいにしか茜の感想は聞いていなかったのだが、嘘も方便である。
「茜、ありがとな。お前のお陰で早くに用が済んだよ」
手短に礼を述べ、その事件記事のファイルを抱え込みまた自分の席につこうとした矢先、茜が真一の襟首を勢いよく掴んだ。ぐおっ!と妙な声を上げて真一は仰け反る。
「おいやめろ伸びるってば服が!」
天井を仰いでいる視界を元の位置に戻そうと試みるが、茜は襟首を掴んだまま離さない。右へ左へと首を振っても、魚を引っ掛けたルアーのように茜の手も左右に揺れるだけである。背後からドスの聞いた声で茜は言った。
「ちょっとアンタ、うちのお願いまだ聞いてへんやろ!このまま帰るつもりか!」
お願い? そういえば、電話でそんなことを言っていたような気がしないでもない。茜の言う「交換条件」のことなど今まですっかり忘れていた真一は、慌てて言った。
「わ、わざとじゃないって!いいよ、何でも言えよ。この何でも屋が叶えてやらぁ」
茜はやっと真一の服から手を離すと、今度は机の上に置いてあった学生鞄をガサガサやり始めた。両手で分厚い問題集らしきものと、ノート、筆記用具類を取り出すと、ポカンとしている真一に無理やりそれを押し付けた。嫌な予感を感じつつも受け取った本を見る。そこにはでかでかと大きな文字で「高2、現代国語 漢字」と書かれていた。真っ白い表紙に黒い字でそれだけ。味気ない本である。
「何だよこれ」
言いながらも、真一は早くもめいっぱい青汁を飲まされたような感覚がしていた。胃の上にずっしりと感じたことのない〈ストレス〉というものが溜まっていくのが分かるし、早くも活字拒否反応で頭がくらくらしている。
「うちの夏休みの宿題、漢字練習編」
お前・・の夏休みの宿題なのか。高校生も大変だな」
「お前」を強調した真一の労いの言葉を、あたかも聞いていないかのように茜は無視する。そして大袈裟に、フィアスでもしたことがない「肩をすくめる」という動作をした。
「うちもな、夏休みは色々と忙しいんや。そもそも、うち理系なのに、なんで漢字の練習せなアカンの?これって時間の浪費やと思うんよ」
そんなの、俺が知るかよ!――口をつきかけた真一の言葉よりも先に茜は言う。穏やかな口調だが、有無を言わさない強い語感を含めて。
「一つの文字につき、一ページ練習するんやて。くれぐれもきれいに丁寧に、女の子の字っぽくしてや」
茜は笑う。歯並びのいい歯をむき出しにして、あっけらかんと笑っている。両頬にあどけない笑窪ができていることを除けば、勝気の体育会系らしい笑い方だった。この少女とは、事務所を借りたときからの長年の付き合いだが、これまで笑ったところなどみたことがない。そしてこんな時に見たくなかったと真一は思った。
ひょっとしたら、〈ドラゴン〉の事件を調べるより厄介な事を引き受けてしまったのかもしれない。