次の日、彩はフィアスが到着するよりも早く何でも屋に来ていた。時刻でいえば9時頃だろうか。フィアスが何でも屋の扉を開けた途端、女の高い声が聞こえてきたのだ。彩は何でも屋にある来客用のソファーに腰掛け、真一と談笑していた。クスクス笑いながら時には頷いたりして、真一の話を聞いている。
 いち早くフィアスに気づいた彩は、嬉しそうにソファーから立ち上がり、駆け寄った。また今日も甘酸っぱい匂いのするあの香水をつけている。
「おはよう。昨日はよく眠れた?」
「ああ、まあな。それより、何の話をしていたんだ」
彩が敵か味方かも分からない状態で、仕事に関係する話であったらマズイので、さりげなく探りを入れてみた。彩はそんなフィアスの内証には気づいていないようで、気分を害した様子もなくただにこにこと笑う。そして、「漫画の話」と言った。
 真一くんは面白い漫画をいっぱい持っているのよ、と。
 なるほど、彩の座っていたソファーの前のテーブルには真一の持ち物であろう漫画雑誌が3冊積み上げられていた。一冊一冊のページ数が多いので、3冊総計すると厚さは優に20cmはあるだろうか。彩はフィアスの元からソファーに帰ってくると漫画雑誌を両手で持ち上げ、元あった場所へと戻しに行く。
彩が遠くに行ったところを見計らうと、フィアスはさりげなさを装って真一を呼び出した。彩には気づかれないように、小声で尋ねる。
「おい、余計なことを言っていないだろうな?〈サイコ・ブレイン〉の調査段階や〈ドラゴン〉に触れるような話を」
真一は余裕の笑みを浮かべて頷いた。
「俺だってちゃんと状況を見極めてる。彩がここに来てから、当たり障りのない普通の会話しかしてないよ」
〝普通〟という言葉がこの奇矯ききょうな男の口から出るとは驚きだ。
フィアスは疑り深い目で真一を見たが、真一に思い切り笑い飛ばされてしまった。
「全く、アンタは心配性だなぁ!例え彩が〈サイコ・ブレイン〉とつるんでいたとしても、俺から引き出せる情報なんて取るに足らないものだろ?」
「こちらの偵察ではなく、アヤの目的はお前を殺すことかも知れないだろ」
だが、彩が真一を殺しに来た刺客だという可能性が低いということは、言っているそばから自覚していた。女の彩が、BLOOD THIRSTY№2である自分の目を盗んで真一を殺す、というのは無理がある。銃や刃物などの凶器を使えば、彩でも真一を仕留める事は可能だが、それより先にフィアスに返り討ちにされるリスクを考えると、それは聡明な判断ではない。どのみち倒されてしまう運命だろうが、まだ真一やフィアスと面識のない男の刺客を送り込んだ方が勝算はある。
そもそも、彩が自分たちを脅かす敵であるはずがない。
そう思いたいのに、どうもBLOOD THIRSTYのデータがインプットされている頭は、すんなりと心に従ってくれない。否、信じたいのに疑ってしまうという心理状況はBLOOD TIRSTYではなく、FBI時代に根付いた心構えから来ているのかも知れない。
 どちらにせよ、職業病という奴は厄介だ。
 彩が生きていたというのは、喜ぶべきことのはずなのに――。
「何を話しているの?」
何の前触れもなく彩が会話に割って入ってきたので、フィアスは一瞬ひやりとした。声の先に視線を走らせると――目と鼻の先。小さな体をぴんと伸ばした状態で、彩は長身の二人を見上げていた。口元には悪戯っぽい笑みを浮かべている。忍者のような敏捷びんしょうさである。
 彩は、この手の「不意打ちの悪戯」が昔から得意だ。背後に忍び寄ってみたり、時には突然抱きついたりして人を驚かせる。人の驚いた顔を見るのが好きなのは、昔も今も変わらないらしい。幸いだったのは、彩が今の会話の内容までは聞いていなかったということか。フィアスは心の中で安堵の息をつく。
「アヤの悪趣味は変わらないな」
そう言うと、彩はふっふっふっ、と不適な笑みを漏らした。そしてスキンシップを求める子供のようにフィアスの腕に抱きつくと、瞳を輝かせてフィアスを見上げた。
「ねぇ、5年ぶりに会えたんだし、ちょっと外へ出てみない?何でも屋さんは素敵だけど、いつまでも部屋の中にいると飽きちゃうわ。勿論、真一くんも一緒にどう?」
フィアスが意見する隙も与えず――もう彩の中では「おでかけ」が決定事項となってしまっているらしい――彩は真一を見る。無論、最後の一言は社交辞令的な誘いなのだろうが、二人の中に真一が加わっても別に良いという妥協精神も含まれていた。
 真一は笑いながら首を振った。
「これ以上遊ぶわけにも行かないよ。この何日かで十分休暇を満喫できたから、そろそろ仕事に戻らないと」
 確かにこの5日間、真一はクーラーを効かせた何でも屋から一歩も動かず、睡眠以外の殆どの時間を自分の趣味に費やしていた。そろそろ漫画とプラモデルの山の中から社会復帰するべきだろう、とフィアスは思ったが、黙っておいた。真一と同じように、5日間、何でも屋で煙草の山に埋もれていた自分に言える道理ではない。
彩は残念そうに少し声を落とした。
「そう……お仕事じゃ仕方ないわね。それじゃあ、また次の機会に」
真一に別れを告げ、まだ行く当ても決めていないというのに彩は歩き出す。カツカツと床を鳴らす彼女のヒールの音を聞きながら、フィアスは後を追う。彩に続いて何でも屋の部屋を出ようとした時、真一が小声で言った。
「俺は、〈ドラゴン〉の連続殺人事件を調べに図書館に行ってくるよ。あそこなら当時の新聞記事が残っていると思うんだ」
なるほど、〝仕事〟とは、そのことだったのか。フィアスは頷く。
「すまない、〈ドラゴン〉の方は頼む。俺は、引き続きアヤを調べる」
鋭い目つきで彩の消えていったドアを見るフィアスに真一は苦笑した。少し呆れているようだった。
「“彩を調べる”か……アンタもとことん疑い深い人間だな。まだ、あの彩が本物かどうか答えが出てないって?」
フィアスは黙って頷く。目線はドアに釘付けになったままだ。そのドアを見つめていれば――彩の去っていった後を見ればその答えが分かるとでもいうように。
 しかし、静かに佇むアルミ造りのドアからは何の決心も、閃きさえも生まれない。それらはドアを越えた先にあるのみだ。
「何か分かったら、連絡してくれ。くれぐれも、無茶はするな」
やがてフィアスは何でも屋のドアを開け、かつての恋人の元へと足を踏み出した。


 燦々と太陽は照っていて、道の彼方に陽炎が立ち昇っている。コンクリートから滲み出る熱が風に乗り、熱風となって吹きすさぶ。29度の猛暑。むかむかするほどに「良い天気」だった。
 先日たくさん煙草を調達したコンビニを通過し、さらに歩くこと5分、整備された並木道に突き当たった。雑音の多いこの街に、こんなに静まり返った場所があるのは意外だった。そこだけが、忙しない都会から隔離されたように閑散としていて、時の進みを遅く感じる。陽光が葉の隙間から零れ落ちて、たくさんの光の筋を作っていた。まるで、雲の切れ間から差し込む「天使の梯子」みたいに。
 並木の坂道を下りながら、彩が言った。
「アルドと一緒に日本にいるなんて、夢みたい」
どう返して良いのか分からなかったので、フィアスは曖昧に相槌を打つ。
「ああ、そうだな」
実に5年ぶりの再会だ。なのに、懐かしさというものが沸かないのは、きっと彩と過ごした時間がこの5年間とは比較にならないほど濃密だったからに違いない。〈BLOOD THIRSTY〉での5年間は散り行く桜の花びらのように儚く淡い印象しかなかった。あれだけ、血で血を洗うような仕事ばかりに明け暮れていたにも関わらず。
「私たち、この長い歳月を超えて良くも悪くも変わったわ。変化に近いけれど、それよりは、それぞれの置かれた状況に順応していったって言った方がいいくらい。私も、貴方も」
「順応……自覚がないな」
彩はフィアスの方を振り向くと、やんわりと微笑む。
「自覚がなくなってこそ、〝慣れた〟っていえるのよ。だからアルも、日々刻々と何かに順応していっているの。意識下で。私と同じように」
「順応」と「変化」が≒で繋がるのなら、フィアスは彩の考えには否定的だった。何故なら、その言葉、その哲学、その笑窪の出来た笑み――彩は、5年前も今も何一つ変わっていないからだ。その場その場で絶えず変化していっているなんて思えない、彩は昔のまま変わらない。5年前から少しも時が進んでいないようにすら思えるのは、今の自分の心理状況と関係があるのだろうか。フィアスは一瞬そんなことを思った。
「相変わらず、アヤは不思議な理論を打ち立てるな。心理学や哲学の講義を受けているみたいだ」
お手上げだというようにホールドアップすると、彩は声をあげて笑った。
いやだわ、そんなつもりなんかないのに。でも、どうしてもそんなことを思ってしまうの。長い間、貴方の顔を見れなかったからね、きっと」
間もなく、木漏れ日の差し込む並木道から抜けた。また喧騒が耳を突く。どうやら賑やかな通りに出たらしい。この暑さにもめげず(自分たちも人のことを言える義理ではないのだが)、さまざまな人間が路上を右往左往している。たくさんの人間がいるなかでも、特に男と女の組み合わせが多いのは、ここがレジャースポットだからか。
彩はフィアスを見上げた。
「さあ、どこへ行く? といっても私も貴方も、遊園地や赤レンガ倉庫なんて柄じゃないわね」
その2箇所だけは勘弁してほしい場所だった。喧騒、そして噎せ返るような甘い空気、どちらも好きになれない要素を併せ持っている。幸いなことに、彩も少しだけ口をへの字に曲げて辺りを見回している。
「アルドは、どこか行きたい所ある?」
「アヤは?」
「うーん……特になし」
「俺も、特には……」
賑やかなレジャースポットでのあまりに不釣合いな会話に二人は苦笑する。適当にその辺りを散策してみるも、過ぎ行く男女の浮ついた会話がやたらと耳障りだ。丁度夏休みシーズンだからか、人口密度が普段にも増して濃い。
「東京湾でも行くか」
この強い色彩が発する息苦しさに堪り兼ねたフィアスの提案に、彩は強く頷いた。ここに招いたはいいものの、やはり彩もこの喧騒を嫌悪しているようだった。否、「喧騒」というよりは、「人間の塊」自体が嫌なのだろう。自分と似たような考えの女で助かった、とフィアスは思った。
 共鳴する部分があったからこそ、5年前の自分はあんなにも彩のことを好いていたのかも知れないが。
 タクシーを拾って、横浜ベイブリッジ方面へと進み、横浜港近くで降りた。埋め立てて作った敷地面積を全て倉庫として活用しているその地帯はコンクリートの灰色とプレハブ倉庫の白色のみの色調で少し味気ない。
 数ある倉庫郡の一角に、フィアスの雇っている貸し倉庫があった。かなり大きな倉庫だったが、専ら車庫にしか使っていない。この3年ほど放りっぱなしだったのだが、先日六本木へ出かけた際に倉庫を開放しておいたのだ。それから、鍵はいつでも解除したまま。無用心に思われるが、盗まれてもさし障りのないくらい、この倉庫の中にあるものはフィアスにとって取るに足らなかった。
 倉庫を開くと勢いよく埃が舞い上がった。薄暗かった倉庫に段々と陽光が満ちてくる。やがて闇の中から、丸みを帯びたボンネットを光沢させて、一台の黒いBMWが姿を現した。
 このBMW、正しくはBMW 645Ciというらしい。2003年に発表されて以来、今尚開発され続けているBMWの6シリーズの中でも初期の頃に発売された車だ。BMWでも名高い6シリーズだけあり、値段にして1500万は下らない……そんなことを、この車の元持ち主であり、依頼人クライアントであった政治家が舌足らずな口調で熱弁していた。フィアスには一般車となんら変わりなく見えるこの車も、愛好者にとっては珠玉の一台らしかった。
 そんな高価な車が政治家の手を離れ、タダ同然で自分の手に渡ったのは、その政治家が国家予算を横領して自分のコレクションを増やしていた事が明るみに出てしまったから。この車は自分の元に厄介払い――またの名を隠蔽いんぺい――されて来たのだ。「仕事の報酬とは別の祖品」という皮をかぶって。
 闇の金で買われたBMW 645Ciは、売り払うことも捨ててしまうことも出来そうになかった。万一、売り払ったBMWから自分に足が付けば、自分もあの政治家の共犯者にされかねない。一箇所に定住していたくないフィアスが様々なホテルを点々とする一方で、3年も横浜に倉庫を借りているのは、この車の処理に困ったからだ。
「わ。すごい車!」
その車の持つ泥臭い過去など知る由もなく、彩は歓声を上げた。高級車というのは、言わずとも分かってしまうものらしい。彩は「BLOOD TIRSTYってすごいのねー」と溜息を漏らしながらBMWを見ていた。
「これは貰い物だよ。値段もそんなにしない」
1500万という事実は伏せてフィアスは言った。
 一瞬、まだ気を許していない彩に、この倉庫の場所を教えても良かったものかと考えたが、持て余しているBMWと横浜の貸し倉庫くらいでこちら側がどうにかなるということはないだろう。むしろ敵陣に塩を送るという具合に、「彼ら・・」にこの車を倉庫ごと引き取ってもらいたいくらいだ――勿論、彩が〈サイコ・ブレイン〉の仲間だったらの話だが。
こう考えてフィアスは、またもや〈サイコ・ブレイン〉と彩を一括りにしている自分にどうしようもなく苛々した。目の前ではしゃぎながら助手席に乗り込んでいるこの女性を信じたいと思うほど、心の中は猜疑心で満ちてくる。これは、自分の第六感が警報ベルを鳴らしているのか、それとも彼女に関係なく、単に「外部」からの刺激に対して警戒心が強くなってしまっているだけなのか。
 フィオリーナと話がしたい、とフィアスは思った。彼女なら、常に正しい判断を下してくれるだろう。余計な感情に惑わされることもなく、BLOOD TIRSTYの№1として、№2である自分が何をすればいいのか教えてくれるはずだ。
 だが、彩を信じるかどうかは彼女の天秤で計ってしまってはいけない。否、計ってしまいたくない。
 いくらフィオリーナの判断が正確で的を射ていたとしても、彩が生きているという事の真偽、彩が〈サイコ・ブレイン〉の仲間かどうかの真偽は、自分の手ではっきりさせておきたかった。
 それが「過去に決着をつける」という今回のミッションに加わっているのであれば、多少の危険もいとわない。


 ベイブリッジに着くと、橋を渡らずに、その付近に適当に車を止めた。アスファルトの整備された灰色の地面に、金網が張り巡らされた駐車場。網目に阻まれてはいるが、青灰色の東京湾の水平線が見渡せる。やたら海の上を行く客船が目に写った。
「みなとみらいに行った方が良かったかもな」
殺風景な展望に、フィアスは呟く。海に落ちないようにするためのものだろうが、有刺鉄線の付いた金網の張り巡らされたここはまるで刑務所みたいだ。この晴天に似合わず閑散としている。ただ寄せては返す波の音だけが、響いている。
「そうかしら。私、この場所好きよ。静かで」
彩がにっこりと笑いながら遠くの海を指差す。
「東京湾のこの色、何だか貴方の瞳みたいね」
深い青を湛えた海の色。どこまでも濃く、青というよりは灰色に近い色。太陽の光を浴びて、揺れる水面が輝いている。
「この海はどんな天候でも灰色だ」
「あら、嫌い?」
「いや……」
東京湾を好きか嫌いかなんて考えた事がなかったので、口ごもる。
暫くの沈黙。
その間も耳鳴りのようにずっと波の音は響いている。感情を無心へと誘う。やがて左手に自分とは違う体温を感じたので、フィアスは隣にいる彼女を見た。小さくて華奢な手が一つ、自分の左手を軽く握っていた。陶器のようになめらかな手。
 瞬時に7年ほど前の記憶が呼び起こされる。初めて彼女に会い、握手をした時の記憶。自分の握力がこの小さな手を砕いてしまうのではないかと心配しながらの握手だった。ほんの5年前まで、いつだって手の届く位置にこの手があり、彼女がいた。
「ねえ、アルド」
静かな口調で彩は言った。二つの黒い目が自分を見つめている。いつになく真剣な眼差し。
「私たち、またやり直せないかしら?もう5年前には戻れないの?」
彩の瞳の奥に溢れる透明な海を見て、フィアスは暫し言葉を失った。