その女の名は


 〈サイコ・ブレイン〉が動き出す――それは、この一連の事件が大きく進展することを示していた。振り向くことのなかった〈サイコ・ブレイン〉の背中が今、身をひるがえしこちらと対峙しようとしていることを思うと、じっとしてはいられない。
 しかし、〈サイコ・ブレイン〉の輪郭は未だ霧に包まれたまま、動きようがない。動きたいのに、動けない。
 矛盾した感情と現実に挟まれ、歯痒い日々が5日も続いた。真一はその間、何でも屋の仕事は入れなかった。もちろんフィアスも、何でも屋の手伝い――といっても専らやることといったら、真一の好まないヤクザ間の喧嘩や乱闘を治めるだけなのだが――どころではなかった。
 ただ辛抱強く、事が起こるのを何でも屋の事務所のソファーで煙草をふかしながら待ちわびた。
 6日目の午後は、日が燦々さんさん燦々と照りつける記録的な猛暑だった。笹川の家を後にしてからこの6日間で計10箱の「JUNK&LACK」を消費したフィアスは、もう手元に煙草のストックが残っていないことに気がついた。ソファーの前の灰皿には黒い煙草の吸殻すいがらが山のように積み上げられている。灰皿から黒い塊を金属製のゴミ箱へ葬るとフィアスは言った。
「JUNK&LACK、あるか?」
 部屋の一番奥、窓に面した事務机に踏ん反り返って座っていた真一は一心不乱に読みふけっていた漫画雑誌から顔をあげた。
「もうそれで最後だって、1時間前にも言ったんだけど」
 フィアスの持っていた煙草は4日目で品切れとなっていた。それ以降、同じ銘柄の煙草を「お守り」として持つ真一に、なくなる度にせがんでいたのだが、それもついに底を尽きたようだ。フィアスは舌打ちすると不機嫌な顔でソファーに戻った。苛々と頭をむしる。
「まるで、ヤクが切れたジャンキーだな」
その仕草を見て真一が言う。まだ部屋に漂っている煙草の臭いを雑誌で霧散させると、白濁した霧が少し薄くなった。
「煙草が原因じゃない」
低い声でぼそりとフィアスは言う。長い中指が貧乏揺すりのように、しきりにテーブルを叩いている。
「〈サイコ・ブレイン〉はいつまで俺を待たせる気だ」
 まるで、注文した料理が中々来ないのを待ちかねている客である。そこには恐れも不安もなく、ただ苛立ちだけがあった。
 それも、無理はない。闘うことが仕事であるBLOOD TIRSTYがもう6日もこの10畳の何でも屋事務所に缶詰になっているのだ。
〈サイコ・ブレイン〉が何か仕掛けてくるとしたら、この真一のいる何でも屋しかないわけで、体力を温存するためにも闇雲に動き回らず、〈サイコ・ブレイン〉を迎え撃つ――所謂いわゆる籠城作戦ろうじょうさくせん」的なやり方を提示したのはフィアスだったが、こんなにも待たされるとは本人も予想していなかったようだ。
 真一がどんなことをして〈サイコ・ブレイン〉から命を狙われることになったのかは、相変わらず不明(真一自身も語る気はないらしい)のままだが、真一が生きていると知れば向こうも気が気ではないはずだ。1年前と同じようにまた新たな刺客がやってくるだろうと思っていた。
 しかし結果は、このザマである。
 フィアスが時間経過とともに積み重なっていくストレスを煙草で解消する不健康な日々を送る反面、真一はこの5日間を「夏休み」と捉え、悠々自適な生活を送っている。
 アメリカへ行っていた間、読んでいなかった「少年ジャンプ」は茜から借りて読破したし、買うだけ買って全く手をつけていなかったプラモデルも3体全てを完成させた。コーヒーは24時間飲み放題。とりあえず、今〈サイコ・ブレイン〉に殺されても悔いはない……漫画の続きは気になるが。
「アンタは煙草と拳銃以外に楽しみを見出したほうがいいと思うぜ。あと暇つぶしの仕方も研究したほうがいい」
 真一のアドバイスは、当然の如くフィアスに無視された。これは日常茶飯事なので、特に何とも思わない。左右に首を傾け、凝った首の間接をほぐすと真一はまた読書に戻った。
 その後暫くフィアスは煙草の黒い箱を右手から左手へと転がしていたが、ついに耐えられなくなったのか、床を蹴って立ち上がった。JUNK&LACKの空箱をゴミ箱に放ると、その足で何でも屋の出口へと向かう。
「どこ行くんだ?」と真一が声をかけても、フィアスは振り返らない。ドアノブを捻り外へ出て行ったので、真一も雑誌を放り出すと後を追った。


 フィアスは何でも屋から歩いて数分の所にあるコンビニエンスストアに行くと煙草を1ダースも買った。ついでにボトル容器に入ったビターチョコレート(ストレス解消効果というキャッチコピーで売れている商品だ)も購入すると、苛々したまま店を後にした。フィアスの静かだが一般人とは比べ物にならない殺気に当てられ、半泣きになっていた店員の女の子に頭を下げると、真一もそそくさと店を出る。
 フィアスは歩きながら早速Zippoのライターで煙草に火をつけた。「JUNK&LACK」などというマイナーな煙草は売っていなかったらしく、手に持つのは似たような黒いパッケージのセブンスター。セブンスターの中でも特に重いとされる、ブラックインパクトだ。メジャーな銘柄だけあって、JUNK&LACKの甘ったるい不思議な香りはしない。ヘビースモーカーと言えども、JUNK&LACKしか吸っていないフィアスから漂うセブンスターの匂いは、真一にしてみると違和感がある。
「何だ、煙草が欲しかっただけかよ」
 そう言ったものの、真一は心の中で安堵した。今のフィアスは、街のまっただ中で拳銃を乱射し始めてもおかしくない。それを煙草ひとつで食い止められるのなら、いくら煙草の課税が囁かれていても安い犠牲である。
 フィアスは煙草を銜えながら暗い目をして真一を見た。暗いながらも青灰色の瞳の中には闘いの炎がたぎっている。ギラギラとした肉食獣の目を細めるとフィアスは言った。
「いい加減、頭がおかしくなりそうだ。拳銃に手を伸ばしそうになるのは、その前兆か?」
 真一は返事に詰まる。この短気なBLOOD TIRSTYは無意味に銃を振り回そうとする一歩手前まで来てしまっているようだ。笹川毅一が「退屈は死病だ」と言っていたように、フィアスにも退屈は死病らしい。ただ、その死病がもたらす「死」は己か他人であるかだけの違いである。なんと迷惑なことだろうか。
 返事に困って真一が道の先に目をやると、見覚えのある制服を着た女子高生がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。長いポニーテールを振り乱し、大股で闊歩する所はさながら軍隊のようである。あどけなさの残る、勝気だが可愛い顔を目いっぱい引きつらせ、どうやらご立腹の様子だ。
「真一――――っ!!」
 この、人目を気にしない馬鹿でかい声は紛うことなく、真一の事務所の管理人である荻野茜である。真一は思わず一歩退いたが、今日が家賃の支払日でないことを思い出し、体勢を立て直す。この少女は支払日になると鬼も逃げ出す形相で――時には金属バットを手に――やってくるのだが、それ以外は比較的害はない。決して公私混同をしないのである。
茜は真一の前まで来て立ち止まると、上目遣いに真一を睨んだ。
「アホ! なしてアンタはいっつも事務所におらんのや! ひょっとしてアンタ、うちを避けとるんとちゃうか?」
「半分当たってて、半分はずれだな。家賃支払い前になるとやむを得ずその策をとることもあるが、普段の俺はそんなガキっぽいことはしないぜ」
茜は暫く真一を猜疑心に満ちた目で見ていたが、やがて口を開き、はっきりと言葉を発した。
「お・きゃ・く・さ・ん・や・で」
「へ?」
「せやから、アンタにお客さん」
茜は親指で真一の事務所がある方を指差す。
「友達と一緒におったら、アンタの知り合いやっちゅーお姉ちゃんに声掛けられたんや。何でも屋の場所を知らんようやったから、うち、友達にバイバイしてここまで連れてきてん。せやけど、アンタが何でも屋におらんから、姉ちゃん、店の前で待つ言うて、今も道端でつっ立っとるんやぞ。この暑い中、お客さんを外で待たせるなんて商売人の風上にも置けへんで!」
 ギラギラ輝く太陽をもろともせず、茜はまくし立てた。この少女には猛暑も何もないようだ。むしろ怒りをあらわにした目は太陽よりもギラギラしている。
「おい、アカネとやら」
 尚も、真一に凄む茜にフィアスは横から声を掛けた。茜は真一から目線を外すとフィアスを見上げた。
「なんやねん、兄ちゃん」
「その女はどんな人間だ?容姿や雰囲気を細かく教えてくれ」
不機嫌な表情から一転して、フィアスは真剣な顔で茜を見つめる。フィアスはその女を〈サイコ・ブレイン〉の手先だと考えているようだ。フィアスの眼は、茜の怒りに満ちた瞳の光とは違う、物事を見極めるための鋭い光を走らせていた。
茜はうーんと暫く悩んだ末、一言、
「美人」
と断言した。
「ああいうんを和風美人っていうんやろなぁー。友達も言うてたけど、職業はモデルやで」
ギラギラしていた瞳を今度はキラキラさせて茜はうっとりと宙を仰ぐ。
茜の熱に浮かされたような瞳には何も言わずに、フィアスは真一を見る。
「過去にモデルから何でも屋の依頼を受けたことはあるか?」
真一は即座に首を振る。
「ヤクザとヤンキーが活用する何でも屋だぜ。そんな種類の人間はお客にいねぇよ。悲しいことに和風美人なんてのは、知り合いにもいねぇな」
「ということは、知り合いだというその女の証言は嘘か……」
フィアスの言葉に茜は首を振った。
「真一とは〝知り合いの知り合い〟や言うてたで。直接的には関わらんとも知り合いや言うこともあるやろ」
「うーん……匿名希望で仕事の依頼を受けたことも、あるにはあるなぁ」
「じゃあ、きっとその類の人や。とにかく、早ぅ、姉ちゃんとこ行ってやり。この暑さじゃあ熱射病になってまう」
そう言うやいなや、茜は二人に別れも告げず、鞄を肩に掛けなおし歩き出したが数歩進むと、思い出したように真一の方を振り返った。
「真一、次の家賃支払い日は11日やで」


 フィアスは眉間にしわを寄せて、去っていく茜の後姿を見送った……というよりは睨んでいた。
「要領を得ない娘だな。その女のことが全く分からなかった」
「美人だって」
「美人というだけでは漠然とし過ぎている。外見的な特徴が掴めない。服装についても詳しく聞きたいところだった。武器を所持しているとすれば、動きやすい服装で事に臨むだろうからな」
真一は首を捻る。
「〝事〟ってなんだよ?」
フィアスは人差し指を突き立てると真一を指差した。二つの青い目が真一を睨み、きっぱりと言い放った。
「お前の、抹殺だ」

 数分間の論議の末、結局「自称・真一の知り合いの知り合い」という女に会うことになった。その女が〈サイコ・ブレイン〉の一味かどうかは分からないが、出始めからいきなり討って出てくることはないだろうという結論に至ったからだ。いくら極悪集団の〈サイコ・ブレイン〉でも、真昼間から――それもこんなに人通りの多いところで犯行に及ぶような馬鹿な真似はしないだろう。万分の一の確率でその女が攻撃を仕掛けてきた場合には、それよりも素早い速さでフィアスの重火器が唸るだけである。
「そもそも、その美人さんが〈サイコ・ブレイン〉の刺客だって決まったわけじゃないんだし……ひょっとしたら、本当に俺のお客さんかも知れないじゃん」
何でも屋へと向かいながら真一は言った。フィアスは銃の点検に忙しい。ステンレスボディーの、S&W M5906が太陽光を反射してきらりと光る。
「ミスキャストだ。この銃は目立って仕方ない」
フィアスは不満そうに眉をひそめる。
「もし女が攻撃を仕掛けてきても、出来る限り銃は使わない方向で防ぐ」
「だから、まだ美人さんが〈サイコ・ブレイン〉だと決まったわけじゃないだろ」
銃を懐に戻したフィアスを真一はいさめた。分かっている、というようにフィアスは軽く頷き、ポケットから取り出した煙草に火をつけると一服吸った。景気づけのたぐいなのか、一息吸っただけで煙草を地面に落としてしまった。足で新品同様の煙草の火をすり潰すと、白濁した煙を口から吐き出す。
「妙な胸騒ぎがするのは、俺の気のせいだと良いけどな」
 真一の事務所の前の通りは、老若男女あらゆる種の人間で賑わっていた。時間的にもちょうど学生の下校時間と重なるらしく、制服姿の若者もちらほら見える。ニアミスの距離で通行人をかわし先を急いだ。
 5分も歩かないうちに真一の事務所の前、丁度「Sherlock Holmes」の入り口をうろうろしている女性の姿が目に付いた。あれが茜の言う「純和風美女」なのだろう。真一は目を凝らしてその女性を見たが、遠くて顔の造りまでは分からない。着ているものは、ブルーグリーン色の胸元の部分がキャミソールのように開いているワンピース。白と青緑のストライプ柄で太い胸紐のように見えるのは、胸の下に華やかな縦線プリントではなく無地のブルーグリーンで切替されているからだろう。ワンピースの裾はギャザーがあしらわれ、ひらひらしている。そのレースの裾から、細くて長い足が伸びていた。
 茜の言ったとおりモデルのようなスタイルの良さである。
 髪型はおかっぱ頭に近いショートボブで、ヘアーカラーを使った形跡もない漆黒の黒髪。ワンピースも似合っているが、あの髪型なら和服も似合いそうだ。茜の言うところによると、顔は日本風美人らしいが、果たして如何なるものか。
 期待に胸を弾ませ、足取りの軽い真一とは反対に、フィアスは段々と歩く速度を落としていく。何でも屋まで10m足らずの地点で、フィアスはついに足を止めた。
「どうした?」
2,3歩先を行っていた真一が振り返ると、フィアスは青い目を大きく見開いて、唯の一点――その女性を凝視していた。瞳の奥にある瞳孔どうこうまでもが大きくなっている。
 心臓に弾丸を喰らったかのような、平生無表情なこの男からは想像もつかない驚愕の顔だった。
「う、嘘だ……」
フィアスのいつも通りの低音の声が、腹に弾丸を喰らっても裏返ることすらなかった声が、震えている。
「な、な、なんだよ!? どうしたっていうんだ?」
唯ならないフィアスの雰囲気を感じ取った真一も声をどもらせる。フィアスは真一の言葉に返事をせず――というか、真一の声が耳に届いていないようだ――生唾を飲み込んだ。
 そして、また声を震わせて、
「アヤ……」

かつての恋人の名前を呼んだ。