開業「何でも屋」


 銀座は、落ち着きのある荘厳そうごんな街だ。横浜や渋谷のような派手な喧騒はない。代わりに、四百年というかなり長い歴史を持つ伝統ある街である。大正、昭和の初期にかけて流行した、欧米文化の先駆けとなった場所でもあるらしい。着崩した着物の人間が、我先にと洋服を求めた時代だ。小道の脇に設置された街燈がいとうの、実用性よりも美術的要素を重視したランプがそれを物語っていた。海外から来たフィアスとしては、どことなく親しみやすさを感じる街だと思った。
 彩がかつてこの街の話をしたことがあった。彩のいた横浜から近いということもあり、よく出かけていたらしい。懐かしそうに、アメリカから遠い故郷に思いを馳せていたのだ。
 龍頭彩。五年前まで、確かに存在していた女の記憶を引っ張り出すと、まるで昨日のことのように鮮明に思い出せた。色白な小顔に壊れそうなくらい細くて華奢だった肢体はもちろん、些細な仕草から喋り方に至るまで。
 頭の中の“記憶”というよりも、感覚的に体中に染み付いている。彼女自身が強烈で甘美な芳香ほうこうかもし出す香水だったのだ。彼女の去っていった後の残り香は、五年経った今も消えない。〈サイコ・ブレイン〉の捜査に乗り出した今、尚のこと頭にちらついて、むせ返りそうに苦しくなる。その度に、フィアスは煙草の灰の匂いでそれを紛らわせていた。
 真一に指定された、ゴロツキとやらが多く出没する地帯に着くと、時刻は既に午後八時だった。薄暗がりに紛れて、そろそろ裏世界の住人が目覚める時間帯だ。表街道から外れた裏通りに入ると、たくさんのBARやスナックが押し合い圧し合いして並んでいた。九時も回ると殆どの店には明かりがついて、人が沸いたようにたくさん通りを行きかい始めた。昼の物静かで高尚的な雰囲気とは打って変わって、小さなお祭り騒ぎである。サラリーマンから、胡散臭そうなホスト風情、化粧の濃いホステスまで、すれ違う人種は様々だ。しかし、取り分け目立ったのは目つきの鋭い獣のような男たち。自分と同じモノトーンのスーツを着ているが、商業マンといった雰囲気ではない。(勿論、自分も人のことは言える立場ではないが。)
 或る男のスーツの袖口から見えた手の甲の刺青をフィアスは見逃さなかった。人数は二人、肩で風を切って通りを歩いていく。二人の威圧感に、周囲の人々は彼らとかなり距離を保っていたが、フィアスだけがニアミスの距離ですれ違った。独擅場どくせんじょうでのっしのっしと歩を進めていた男は、すぐ傍をすれ違ったフィアスにピクリと眉を動かしたが、何も言わずにその場を過ぎ去った。男によって掻き分けられた通り道が、ゆっくりと人で埋まる。
 フィアスはすぐさま踵を返してして男の後を追いかける。第六感があの人間を裏世界に生きる人間だと見定めた。遅くもなく早くもない歩調で、男と一定の間合いを取りながら、なおかつ自然体で後をつけていく。
BLOOD THIRSTYを5年間やってきた上に、FBIのキャリアまで持ち合わせているフィアスに、尾行はお手の物だった。相手は気づく様子もない。二人で何やら話しながら先を急いでいる。今仕留めようとすれば簡単だったが、ここで乱闘に持ち込むのは利口ではない。あくまで、依頼された内容との関係性を見極めたうえで叩きのめさなければ、こちらがただの暴力犯である。
 もともと、銀座を治めているヤクザたちがいるらしいのだが、真一の「信頼のおけるツテ」の号令で、今宵の“仕事”は臨時休業としてもらっている。――ということは、あのヤクザはシマの人間ではないということ。ヤクザ紛いの犯行に及んだ時点で「シマ荒らし」になるはずだ。そこを利用して、制裁を与えてやるのが今回立てた作戦だ……否、銀座のヤクザに〈サイコ・ブレイン〉についての情報を聞き出すことが本来の目的である。あのヤクザたちが〈サイコ・ブレイン〉に関する核心的な情報を持っていることを祈るしかない。
 一時間もするとヤクザ二人は人通りの激しい繁華街を抜けて、暗い電灯が並んだ寂れたとおりに出た。きらびやかな街並みを背景に、灰色で統一された通りを我が物顔で歩いていく。こんな所に出たって引っかかる獲物もいないだろうに。フィアスは首を捻る。しかし、目的もなしにここへ来たとは考えにくい。タクシーを拾って、ここから違う繁華街に向かうのかと考えもしたが、向こうはそんな様子もなくひたすら徒歩だ。それにならって、こちらもついていくしかない。
 さすがに人が少なくなったので、ビルやマンションの陰に隠れつつフィアスは後を追った。
 夜も十一時を回った。尾行してから、かれこれ二時間余りが経過している。男たちは何かを喋りながら歩いていたが、ここからでは遠くて聞こえにくい。途中途中で「月」や「明日の天気」といった単語が聞こえてきたので、それほど重大な話ではないのだろうが。
 突然、最近のボルボの調子がどうのこうのと論議していた男たちの話し声が途切れた。二人を取り巻いていた和気藹々わきあいあいとした雰囲気が一転して、静寂を帯びる。二人の周りを取り巻く剛強な圧力。ならって、フィアスも気を引き締める。左手にナックルを嵌めると予想外に冷えていて、指の関節がしびれた。
 二人は或る細い歩道――というよりは路地だ――に右折した。両側が高いビルに囲まれた人気のない裏路地。フィアスも早足で、路地の手前まで行き、反射的に立ち止まる。間近で二人の気配を感じた。どうやら二人は路地の奥へと進まずに、手前で待機しているらしい。
「こんばんは、北村さん。夜分遅くこんな暗い所へご足労を煩わせてすいませんね……」
二人のうちの一人が発したのであろう低い声が聞こえた。わざとらしい程、恭しく挨拶をしている。誰かが、二人の前にいる。
「……」
第三の男は押し黙ったまま挨拶をしない。そんなことを気にも留めず、低い声が続ける。
「このままじゃ、うちの所もね、おまんまの食い上げって奴なんですよ。ここは仁義を通して払うモン払ってもらわんとね」
警察官が職務質問するときのように密やかで落ち着いた声だ。それが逆にカモとなった人間の恐怖をあおる効果があるのだろう。
暫くの沈黙。
やがて、
「払うのか!? それともこのまま海に沈むか!?」
物々しげな口調の男とは対照的な荒声で、もう一人の男の怒号が飛んだ。
「ま、まままま待って待って……」
北村という男の上ずった声。恐怖に凍りついた雰囲気が伝わってくる。怯えているカモ一匹にも、ヤクザは容赦ない。
「はっきりしろっ! 今ここでカタをつけても構わないんだぞ!」
「まあ、待て藤崎。喧嘩はアカン」
「でも、兄貴コイツ……」
「ワシの言うとることが分からんのか、藤崎!」
カッカしている藤崎と呼ばれたヤクザを、兄貴分のヤクザはぴしゃりと叱りつけた。反発するかと思えば、藤崎はすぐに静かになった。この藤崎という男は兄貴の弟分にあるらしい。
 ヤクザの世界では、自分より格上の人物の命令は理不尽なことでも絶対服従となっている。ヤクザの親分が、例え真っ白な鳩でも「鴉」と名指したのならば、鴉と認識しなければいけないくらいの絶対的権力である。「目上の人間に逆らってはならない」。それがヤクザの上下関係における最大の掟なのだ。藤崎の微々たる殺気がしゅるしゅるとしぼんでいく。
「――で、どうしましょうか? 北村さんには日頃から世話になってることですし、ここは低利といわず、借りたモンだけ全部返して頂ければ、事は終わりにしましょう。お上には私の方から報告しときますわ」
穏やかな声で、むしろ同情するような感情も含めて兄貴が言った。藤崎とは対照的な優しさである。この二人のちぐはぐな雰囲気に、フィアスは違和感を覚えた。藤崎の方を悪魔だとすると、兄貴の態度はまるで救いの手をさしのべる天使である。この温度差を用いた彼らの手段を知っている。交渉テクニックの一つである、「良い警官と悪い警官」。つまり、この義兄弟のやりとりは最初から全てがヤラセなのだ。一人がカモを酷く打ちつけて、もう一人がカモに手を差し伸べる。そうすることで、標的は後者をこの上なく信頼してしまい、心を許してしまう。刑事の取調べから、精神患者の治療に至るまで幅広く使役されている、非常にオーソドックスな手法だ。最近の借金取りも、勢いだけではなく頭を使った計略が物を言うようだ。こうなってくると最早北村という男は兄貴の思うがままである。
 フィアスは左手に冷たいナックルの感触を味わいながら、タイミングを見計らう。細道では、北村がまんまと義兄弟の策略に引っ掛かったのか、借金における商談は成立に入っていた。険悪だった空気が徐々に和らいでいく。
これでは、シマを荒らしたことになるのかどうかは不明である。個人的に貸した金を返してもらう。その場所がたまたま銀座だっただけで、銀座のヤクザともゴロツキとも関係ないと言われればそれまでだ。もう少し確たる証拠が欲しい。彼らが銀座のシマ荒らしであるという、動かぬ証拠が。
「それじゃあ、S組の七百万、期日までに耳揃えて返して頂けますよう」
――これだ。
兄貴が恭しく述べた瞬間、動かぬ証拠を掴まえた。フィアスは拳を鳴らしながら細道へと入る。
突然の第三者の介入に、一同は訝しげな顔でフィアスを見る。
「……誰だ?」
口火を切ったのは、兄貴だった。隣にいる背の低い男が藤崎。二人の背後にいる四十代のサラリーマン風の男が北村だろう。一人だけ精も根も尽き果てたやつれた顔をしている。兄貴はすぐさま鋭い目つきで、背後にいた北村を睨む。
「北村さん。アンタ、ミカジメ用心棒おるんとちゃうやろな?」
北村は滅相もないという顔で首を左右に振る。
「ホンマかいな」
北村は、今度はぶんぶんと音が鳴るくらい首を上下に振った。ふむ、と唸って北村を睨んでいた眼光がまたフィアスに向いた。
「じゃあ、兄ちゃんはどこぞのどなたさんや?」
「お前こそ誰だ」
フィアスが試しに聞いてみると、兄貴はもったいぶった調子で言った。
「こわいこわいヤクザ屋さんやで」
「そんなことは分かっている」
ヤクザに臆することなく、フィアスが言い返したのが少し癪に障ったようだった。兄貴は目をかっと見開くと押し殺した声で続けた。
「どこのモンか知らんけどな、さっさと消えんと後悔することになるで」
「貴様らこそ、何者だ? 何故S組の名を名乗っている」
S組を指摘したフィアスの質問に、兄貴と藤崎は全てを悟ったらしい。歯をむいてフィアスを睨んでいる。カモにされた男だけが、背後でポカンと口を開けて事の成り行きを眺めている。
 兄貴はフィアスを睨んでいた目を伏せて、くぐもった声でくっくっくっと笑い始めた。藤崎もニヤリと顔を歪める。
「成る程……兄ちゃんは、S組のモンか。しかし、S組もこんな若造一人を送って寄越すとは、世も末やのぅ」
そう言うなり兄貴は懐から出刃包丁、藤崎はサバイバルナイフを取り出した。研ぎ澄まされた刀は人肉など、簡単に切り裂いてしまうほどの鋭い輝きを見せていた。
「恨まんといてな、兄ちゃん。アンタもご存知の通り、ヤクザなんて因果な商売やがな、しゃーないねん」
「確かに嫌な職業だ」
“何でも屋よりはマシだけどな”と心の中で付け足して、フィアスはボクシングの構えを取った。体術はFBI時代に基礎を、BLOOD THIRSTYに入ってから一通りの流派を取得している。BLOOD THIRSTYの№1、フィオリーナ・ディヴァーの『熱の入りすぎの指南』によって殺されかけたこともあるくらいだ。可憐な上司の仕打ちに比べたら、ゴロツキが何人武器を持っていようが塵芥も同然である。
「あんたたちには伝達役を買ってもらう。殺しはしない」
「何をいけしゃあしゃあと!」
藤崎が完全にキレた。元から感情に左右されやすい人間だったらしい。威勢だけで軽そうな殺気が藤崎を取り巻いている。後方では、兄貴が余裕の笑みである。ぎらつく包丁の刃先を、人差し指と親指の腹で擦りながら藤崎に言った。
「バラすんじゃねぇぞ、藤崎。後々、面倒くさい事になる」
これには、フィアスも大きく頷く。
「確かに、警察沙汰になると厄介だ。早く終わらせよう」
この余裕の一言に、藤崎の咆哮ほうこうが静まり返った夜に轟いた。
「じゃかあしぃ! 死に晒せーっ!!」