凛は病院の近くにとった、エルザのホテルに滞在していた。護衛も兼ねて、イズンが迎えに行く。
 悲しげだったが、彼は戦い慣れしている。諸所の仕草で察した。潜り抜けるようにドアを出ていくイズンを見て、連鎖的にシドを思い出した。
 最後に見たのは、慌てて階段を降る姿。フィオリーナを連れて⁠⁠病院へ行ったはず。
 彼女は無事なのか?
「問題ないわ」とエルザは言った。
「事件から二日後に目覚めて、もう仕事してる。休みなさいって言ったのに、頑固ね」
アルドは安堵する。生き延びてくれた。それで十分だ。
 凛を待つ間、借りたPCでニュースサイトをチェックした。
 エルザも聞き知っていることを教えてくれた。
 眠っていた七日間、世間の動きはこうなっているらしい。
 政府から、依然として警戒令が敷かれている。その範囲は首都圏全域、大阪や福岡といった地方都市でも外出禁止令が出ているようだ。
 テロと見られる事件は、三十五件発生した。そのうち二十六件は神奈川県内だった。
 テロ発生から三日以降、事件は起こっていない。大々的だった一日目と二日目は、日本の軍や特殊部隊、そして海外から派遣された特殊部隊が鎮圧した。
 変死体が発見された。
 老若男女問わず、その数は十名以上。赤い目ではなく、黒や茶色や青色の瞳。銃殺されているが、テロの被害者ではない。巧妙にカモフラージュされた他殺体だと検死官が気づいた。
⁠⁠ これはインターネットに出回った噂で、情報元ははっきりしていない。警察側も⁠⁠黙秘を貫いている。覆面捜査が行われているかも定かではない。
 エルザによると、変死体の事件はフィオリーナが絡んでいる、とのことだ。フィオリーナとアグレッシブなお友達。彼らは連れ立って、<サイコ・ブレイン>の解体作業に勤しんでいる。変死体は解体時に出ただろう。
 隠蔽いんぺい場所もそろそろ潮時。死体安置所は満室だ。死体は自然に返すべきだ。⁠⁠大海原や⁠⁠大森林の中へ。世間の流行はエコロジーだ。
 あとでシドに忠告しておくか、とアルドは思った。
 静かに扉を開く音がした。イズンに付き添われて、凛が入ってきた。
 ドアを背に立ち止まる。
 アルドを見て、エルザを見た。
「ねぇ、抱きしめてもいい?」
その言葉は日本語だった。エルザはにこやかに頷いた。
 抱きしめる、というより、抱きついた。凛はわんわん泣きながら、アルドの首に抱きついた。安心の涙か、喜びの涙か。緊張や恐怖の涙かもしれない。子供のように泣きじゃくっている。
 抱擁を返すと、泣き声は一層激しくなった。頭を撫でて、背中をさすっても、涙は収まらなかった。
 エルザを見ると、彼女は穏やかなドイツ語で、あやすように言った。
 イズン、貴方まで泣くことはないでしょう。
 隣に立つイズンは腕を目に押しつけてもらい泣きしている。凛と同じく号泣レベルだ。
 ⁠⁠彼女を抱きしめたまま、アルドは目を閉じた。温かい暗闇が現れた。腕の中で彼女の声がする。
 肩先に涙の熱さを感じ、両腕の強さを感じる。頰に触れる黒髪と、心臓の鼓動。それらを包む、優しいにおい。

 君はいろいろなものを降り注ぐ。
⁠⁠ 純粋に、真摯に、かけがえなく。
⁠⁠ 美しく激しいそれらに、俺たちは救われた。行くところまで行かずに済んだ。君は、君の知らないところで、難しいことをやってのけた。そして、たくさんの人を救った。
 そのことを、君は知らない。
 言葉に落とし込めば、不可解で、限定的で、嘘っぽく聞こえるだろう。理屈で説明できないものを、説明するのは苦手だから、語ることはしないだろう。
⁠⁠ それでも、俺は忘れない。

 泣き声が止むまで、そんなことを考えた。
「このまま死んじゃうのかと思った。眠りながら歳をとって、死んじゃうのかなって」
涙を拭いながら、凛は怖いことを言った。それから安堵してこうも言った。
⁠⁠ 王子様が目覚めた後だけど、キスしてもいい?
 七日の間、彼女が怖い妄想と戦っていた証拠は目の下に出来たクマから察した。
――ベッドが必要なのは君の方だ。俺は目覚めた。君は寝ろ。ホテルに戻って、仮眠を……
PCに書きつける手が止まった。凛が頬に触れたからだ。
「眼、怪我してるの?」
微かに首を振る。眼帯を少しめくる。凛の目が見開く。白い手が伸びて、眼帯をさらにずらされる。黒い目と数秒、目が合う。彼女はそっと眼帯を元に戻した。
⁠⁠「そのことについて、どう思っているの?」
凛は尋ねる。
 アルドは首を振る。
 なんとも言えない、とPCに打ち込む。
 返答を読んだ凛は、別のことに関心を引かれたようだ。おずおずと尋ねてくる。
「フィアス、喋れないの?」
 頷く。
⁠⁠ 片目が紫色で、声も出ない。
 PCに英文を書いて、喋れない理由を科学者に尋ねる。
 失声症しっせいしょうだと思う、とエルザは答えた。
「脳や⁠⁠喉に損傷は見られなかった。たぶん、精神的なものだと思う⁠⁠⁠。医師に詳細を聞いてみて。退院まで時間があるし、経過観察と言われるかも知れないけれど」
 聞いた答えを日本語に⁠⁠翻訳して凛に伝える。自分のことなのに、仲介に立つと他人事に感じられる。不安顔でディスプレイの文章を読⁠⁠む凛に、一文を付け足す。
⁠⁠――君はどう思う?
「あたしがどう思うかなんて問題じゃないでしょ」
凛は憤慨したように言った。
「どうしてそんなことを聞くの? 心配に決まってるじゃない。貴方はどうなの?」
――俺はなんでもいい。
 ⁠⁠もう、と凛は苦笑する。
「⁠⁠食事の話をしてるんじゃないのよ」

 凛からの連絡を受けて、笹川邸から真一がすっ飛んできた。窓越しに外を伺うと、三台の同じ型のベンツがエントランスに駐車していた。
⁠⁠ どれに真一くんが乗っているのかしら、と凛はつぶやく。
 たぶん、どれにも乗っていないとアルドは思う。あからさまに駐車された⁠⁠カモフラージュ。米国のVIPがよく使う手口⁠⁠だ。
 果たして、ベンツの扉が開かないうちに、真一が病室に飛び込んできた。ぜいぜいと肩で息を吐く。
 笹川組のご子息は、種別の違う車に乗ってきた。三台のベンツとは別ルートを使って病院に着いた。赤目の攻撃に備えるためというより、警察を振り切るためだろう。横浜を発端とした集団テロ行為に、各組織がとばっちりを喰っている。
 凛と同じような行動を真一もとった。うわーん、と泣きながら抱きついた。
⁠⁠ 「泣くなよ」とあれだけ口を酸っぱくして言ったのに大号泣だ。まったく直っていない。祖父が継承しようとした笹川組の王座さえ蹴った男だ。真一への無理強いは、誰にもできない。
 それはともかく、暑苦しい。熊にのしかかられているみたいだ。
 困り顔のエルザの隣で、イズンがまたもらい泣きをしてい⁠⁠る。凛もめそめそと泣いている。
 泣いているやつか、困っているやつ。この病室には二種類の人間しかいないのか。
 アルドは真一を⁠⁠振りほどくと「動くな」というハンドサインを送る。
 PCに文字を打ち込んで、二人に見せる。
 ――感動の再会は終わり。
「喋れなくても、ドライなやつ」
涙を拭いながら真一は言った。
「俺がどれだけ心配したか分かってる?」
不服そうに尋ねる真一。目の下はいつもと同じ色。顔色もすこぶる良さそうだ。
 よく眠れたか? と尋ねると「俺が眠れない日はないよ! いつでもどこでもぐっすりだもんね!」と得意げに胸を張る。
 冷たい眼差しに、言いたいことを込めて送る。片目だけでも、その意図は届いたようだ。
 真一は慌てて話題を変えた。
「と、とにかく! 俺たち三人は切り抜けた。いろいろあったけど、切り抜けた!」
 やったぜ! とガッツポーズを決める真一。
 やったぜ! とガッツポーズを決める凛。
 ぱっ、とこちらを見て、同意を求めてくる。
⁠⁠ 首を傾げて、やらないの? と問いかける視線から目を逸らす。日本的な同調圧力を感じる。
 ⁠⁠俺は日本人⁠⁠じゃない。うるさいものも好きじゃない。
 したがって、乗らない。
 絶対に、やらない。
「ヤッタゼ!」
イズンが楽しげに言った。ガッツポーズを決めて、高く飛び跳ねる。
⁠⁠ 床が揺れて、天井から埃が舞う。
 イズン。他の病室の人に迷惑だから、やめましょうね、とエルザがたしなめる。
 大男は肩を落とした。
 
 積もる話は、若い子たちでしてちょうだい。おばあさんは、ホテルに戻ってお休みするから。
 エルザは席を立った。部屋を出る前に、イズンが大きなポットでハーブティーを沸かしてくれた。そのおいしさに驚きながら、真一⁠⁠と凛は身の回りで起きた変化を話して聞かせた。
 真一が小麗に撃たれたことについて、⁠⁠アルドは少なからず驚⁠⁠いた。真一は負傷した素振りを、一切見せなかったからだ。程度が軽いとは言え、この病室で一番の重傷者は真一だ。
⁠⁠ 本人は、死ぬかと思ったーあはははー、と気の緩んだ顔で笑い話にしている。
 歩道橋で負った小麗の怪我は重く、今なお笹川邸で療養中とのことだ。
⁠⁠「三ヶ月は安静にって言われたから、来年までいるんじゃないかなー」
真一は事もなげに言う。
⁠⁠ 友達を泊める感覚で、敵組織の重鎮を居候させるとは⁠⁠。どこまでお人好しなのか。
 小麗に撃たれたんだよな? と念を入れて聞き返す。
 マジで痛かったーあはははー、と気楽な返事が返ってくる。
 愚かなのか寛容なのか……真一に関するいつもの謎が、アルドの前に立ちはだかる。
 ⁠⁠怪訝なアルドを見て、にこやかに真一は言った。
「小麗、もう殺さないって。そういうのは疲れたって言ってた。それを聞いて、大丈夫⁠⁠かなって思っ⁠⁠て。慶兄ちゃんも屋敷のルールさえ守ってくれれば面倒を見るって言ってくれた。慶兄ちゃんがそう言うってことは、問題ないってことなんだ。問題はあるけど、問題ない。それが仁侠の判断基準」
 彼女は問題なし! と断言する。
 相変わらず独特な世界だな、とアルドは思う。犯罪社会に属していながら、我が組織とは価値観が⁠⁠異なる。笹川組には灰色が存在する。極限もなければ、純化もない。
⁠⁠ 一之瀬の手腕は確かだ。彼に任せておけば、⁠⁠血で血を洗う争いは起こらないだろう。
 真一と茜、そして小麗。世話する人間がさらに増え、世話人としては大変そうだが。
 そこでアルドは思い出した。
⁠⁠ 一之瀬が一番世話を焼いていた男、龍頭正宗はどうなったんだ?
 その答えは凛から聞いた。
「お父さん、入院しているわよ。隣にある一般病棟で。すごーく、すごーく、うるさいわよ」
すごーく、を強調して溜息を吐く。
「美容整形はしないのか。なんで俺は大部屋なんだ。いちばん頑張ったのは俺だろ。ちゃんとVIP扱いしろ。煙草吸わせろ。音楽聞かせろ。とっとと退院させろ。退院させる気がねーんなら、美人な姉ちゃん連れてこい……思い出すのもウンザリするくらい、毎日文句ばかり言ってる。周りの人たちも迷惑してるし、看護師さんからは問題児扱いされてる」
 アルドは苦笑する。相変わらずだ。ショッピングモールで醸した面倒くささを、今度は病院で振りまいている。
 顔の傷も肩の傷も大掛かりな手術が必要なほど深かった。⁠⁠⁠正宗は生身の人間なので、傷の治りも遅いはずだ。おまけに頭⁠⁠もイカれている。イかれ頭は、怪我を負っても意気消沈しないらしい。
 ありあまる生命力を口撃に変えて、周囲に乱射している。同室の病人に同情せざるを得ない。
 全治二ヶ月、と凛は言った。
「二ヶ月間、クレームを吐き続けるのよ、お父さんは。文句とパンクを履き違えて、病人相手に喧嘩を吹きかけるの。いっそ喧嘩してやろうかな。人生初の親子喧嘩。ビンタしたら、少しは大人しくなるか⁠⁠しら」
疲れた顔で凛はため息をついた。その吐息が、微かな笑いに変わる。
「なにはともあれ、無事で良かった。フィアスが生き延びて、真一くんもあたしも生きていて。こうしてお茶を飲みながら、ゆっくり話しができるなんて⁠⁠夢みたいね」
「そうだな。フィアスは喋っていないけど、そのうち声も出るさ。いつもの屁理屈で、俺の話にケチをつけるに決まってる。平和になるにつれて、いよいよ俺たちの会話も漫才じみてくるな」
新しいハーブティーを注ぎながら、真一もうんうんと頷く。
 PCを前に、アルドは少しだけ考え込む。
 筆談用のテキストアプリに、書いた文字をすべて消す。
 空白になった画面に、言葉を打ち込む。
――Fierce
 真一と凛はディスプレイを覗いて、記された文字を読んだ。
⁠⁠ フィアス。
 アルドは頷く。
 続け様に文字を打つ。入力タイプを日本語に変えて。
――その名前での、仕事は終わった。
――Aldo⁠⁠ Decrisis
――⁠⁠アルドだ。アルド・ディクライシス。
 画面を二人に見せる。灰青色の片目で、⁠⁠近しい人の顔を見上げる。一人ずつ。
 ⁠⁠本郷真一⁠⁠。龍頭凛。
⁠⁠ 彼らは伝えたいことを理解した。
 手を出して、握手する。
「よろしくな、アルド」と真一が言った。
「仲良くしてね、アルド」と凛が言った。