暗闇の中を歩いている。
我に帰って立ち止まる。
辺りを見回すが、何も見えない。ここが一体どこなのか検討もつかない。
俺は、どこに向かっているのだろう。
立ち止まって腕組みをする。
少し考えて、首を振る。まったく分からない。
ただ、歩くしかない。
古い木でできた扉が目の前に現れる。その扉の前で、再び腕組みをする。
すごく古い扉だ。年季が入っているのか、あえて古い樹木を使っているのか。とにかく古びている。
扉には木彫りで複雑な模様が彫ってある。蔓草の模様か、何かの紋章。ハートマークに見えなくもない。流線を描いて扉全体に施されている。ところどころに花も咲いている。これは何の花だろう。花の種類にも、アンティーク家具にも詳しくない。
丸い金古美のドアノブがついている。その下に、小さな鍵穴。数歩下がって、周囲に目を向ける……しかし、何もない。
暗闇の中に、その扉だけがある。
改めて向き直る。日本ではあまり見かけない形の扉だが、欧州ではよく目にする。荘厳で、重厚だ。豪奢な屋敷や、歴史的な建造物に使われているものと似ている。それが目の前に立ち現れている。
入れ、ということだろう。
ドアノブに手をかける。鍵は掛かっていなかった。思い切って扉を開く。
薄暗い部屋に出た。誰かの自室だ。扉と似た木彫りの家具が並んでいる。キャビネット、クローゼット、テーブル、椅子、ベッド。
アンティーク家具に囲まれた、小さな部屋。楕円形の出窓があって、その向こうに夜がやってきている。薄暗い外に森が見える。
さらに遠くに見えるのは、湖か。
人の気配がする。薄い天幕がかかったベッドの中。小さな人影が、腰を下ろしている。声は聞こえないが、泣いているようだ。
声の主を驚かせないように、音を立てず、ベッドへ近づく。そして天幕を少しだけ開く。
泣いていたのは女の子だ。
まだ幼い。十二歳くらいの金髪の少女。白いブラウスと黒いスカートを身にまとっている。上品だが、子どもらしくない服装だ。誰かの葬列に、立ち会わされた子供みたいだ。不可思議なのはそれだけじゃない。年端も行かない少女が、大人びて見える。静かに涙する姿は、深い悲しみに暮れる大人の仕草だ。
視線を感じて、少女はぱっと顔をあげた。涙に濡れた目が振り仰ぐ。
その瞳は赤い。
面影に、見覚えがある。
「なぜ戻ってきたの?」
大人びた声色で少女は問いかける。静かな問いだが、怒りと悲しみが混ざりあって張り裂けそうだ。
「なぜ戻ってきたの、ルディガー」
違和を感じる。ルディガー。その名は自分のものではない。とても近しいが、俺じゃない。彼女は勘違いをしている。
そんなに似ているのか、と思いながら、とりあえず尋ねてみる。
「どうして泣いているんだ?」
どうして? 彼女は涙を拭って嘲笑う。これも大人びた、自嘲的な笑いだ。無言のまま咎める眼差しを向けてきた。自分の胸に手を当てて、よく考えろと言っている。
考えるまでもなく、分からない。
彼と彼女の間に起こったことを、俺は知らない。
こちらの困惑が、聡明な少女にも伝わる。
美しい顔を曇らせ、少女も困惑する。
「隣に座ってもいいかな?」と尋ねると、少女は長く逡巡したあとで、頷いた。
ふかふかのベッドに腰掛ける。隣を見下ろすと金髪の頭頂部が見える。上腕より下の位置。横並びになって改めて少女の小ささを知る。
子供に問いかける言葉を選ぶ。
「君は、ずっとここにいるの?」
つとめて優しく尋ねてみる。
「知っているのになぜ聞くの」
つめとめて冷たい答えが返ってくる。
新たな戸惑いが生まれる。子供にかける言葉も難しいが、怒っている女の子を落ち着かせるのはさらに難しい。
頭を掻く……困ったな。女の子の気持ちは、よく分からない。
「知らないんだよ、本当に」
「そんなはずない」
怒りに駆られて、少女は訴える。
「わたくしは、ずっとここにいて、研究され続けている。子供の姿のまま、大人になれない。貴方も知っているでしょう」
「大人になれない」
「そうよ」
怒りとともに悲しみがこみ上げてきたのか、少女は話しながら泣き出した。
「わたくしは大人になれないの。ずっと、ずっと、子供のままなの。わたくしは貴方を愛しているのに、貴方はわたくしを愛してくれない。もう何もかも嫌になってしまったの。どうか放っておいて。いたずらに、わたくしの心を乱さないで」
静まり返った部屋に嗚咽だけが虚しく流れる。時間に囚われた少女は、悲嘆に暮れる。しかし、泣き続けることはできない。感情は移ろう。永遠の悲しみに囚われ続けることは難しい。
泣き腫らした顔を上げ、少女は低い声でつぶやいた。
「貴方は、意地悪だわ」
その声を聞いて、思わず笑いが漏れる。
それは君の方だろう。
意地悪なやり方は、全て君から教わったんだ。
沈黙と威圧は、彼女の得意技だ。これまでに何度も、秘密めいた沈黙に翻弄され続けてきた。たまには翻弄される側の立場に立たされると良い。決して気分の良いものではないと知るはずだ。
少女はふてくされている。泣き腫らした顔が赤い。怒ってもいる。黒いスカートを握りしめる手が、ぷるぷると震え出す。
ええっと、と頭を掻きながら伝える言葉を探す。大人だけど子供の、女の子に伝える言葉……。
「君のことを知らなかった。そんなにも傷ついていたなんて」
嘘つき、と少女は毒づいた。
「見えすいた嘘をつかないで」
「嘘なんてついていない」
嘘つきよ、と鋭い語調で少女は繰り返した。
「貴方の愛は嘘だらけよ。放っておいて。もう消えて」
「嘘じゃない。放ってもおけない」
膝に置いた小さな手に手を重ねる。
彼女は、頑なにスカートを握ったまま離さない。
「これは真実。論証のない真実だ」
「論証のない真実は、どうやって確かめるの?」
「信じてもらうしかないな」
「貴方のことを?」
「そうだ」
少女の赤い目が振り仰ぐ。形の良い眉の間に、小さなシワが寄っている。思考しているか、苦しんでいる。どちらにせよ、猜疑心と戦っている。
その眼差しは、恋人に似ている。彼女たちは、不思議な似か寄り方をしている。
双子でもないのに、そっくりだ。
スカートを握る手が開いた。汗ばんだ小さな手が、握り返してくる。
彼女たちは似ている。
そして、俺たちも。
似ているからこそ、救える。
「受け取ってほしい」と少女に告げた。
「フィオリーナ。君が与えてくれたものと、俺が手に入れたもの。そして、彼女がくれたもの……今度は、君が受け取る番だ」
右手が少女の頬に触れる。赤い目に浮いた涙をぬぐい、身をかがめて口付ける。
彼女は驚いた。
驚いて、怯えた。
それから、恐々と口付けに応じた。
大人びた口調のわりに、少女はキスに慣れていなかった。小さな唇は震えていた。握りしめた手も、小刻みに震えた。
望んでいなくても、必要なこと……あの夜に、彼女が言っていた言葉を思い出した。
望んでいなくても、必要なことってあるでしょう。
そうだな、と思った。誰かを助けるためには、とても身勝手になる必要がある。相手に望まれていない、むしろ望まれていないことをする必要がある。
他人に施して、その意味に気づいた。
キスを止めて、彼女を見る。
赤い視線は、自分とほぼ同じ高さにある。
見慣れた大人の女性。彼女は黒いレースがあしらわれたドレスを身に纏っている。最後の別れに着ていた、儀式的な装束。深い叡智を秘めたブルー・ヒューの目が、悲しく陰った。絹糸のように美しい金髪が、頬に触れる。
もたれる彼女を抱きしめる。髪を撫でて、口付けを交わす。ルディガー、と彼女はつぶやく。悲しみのこもった熱い声で。
溢れる涙が肩先を濡らした。
「どうしてこんなことをしたの?」
低いつぶやきが、耳元で漏れた。
「わたくしは、望んでいなかった」
暗い溜息と涙。その絶望が、重く伝わる。
彼女の気持ちが、痛いほどよく分かった。
希望を奪い合うゲームは、どちらも勝利しなかった。深傷を負って、生き延びた。
傷ついた過去、傷ついた身体、感情、心、理性、感覚……それらを抱えて、現在を超える。
約束はない。希望があるかも分からない。それでも、人生を生き延びていく。
抱きしめた身体は、少女でいたときよりも、小さく頼りない。
どうしてこんなことをしたの?
その質問は、過去に自分も問いかけた。恋人に向けて。
その答えを、ようやく見つけた。
「君を愛している」