傷が
天井の木目が真っ先に目に入る。それから被さった掛け布団の重み。頭はぼんやりしているが対照的に目は冴えている。じんじんと痛み続ける傷。
そうだ、俺、撃たれたんだ。
恐る恐る患部に手を触れると、包帯が巻いてあった。撃たれた後で、医者が来て処置をした。麻酔を打って、傷口を縫合してくれた。 目が覚めたのは、麻酔が切れてきたからか。
「おー、起きたか」
障子戸を爪先で開けて、茜が入ってきた。おはようさん。時間違いの挨拶をして、布団の側に腰を下ろす。彼女は四角い盆を置いた。盆の上には大きなおにぎりが三個と漬物と味噌汁が載っている。
ぐーっと鳴る腹の音に、茜は笑う。
「おかゆにしようか迷ったけど、その調子なら食えるな」
「これ、お前が作ったのか?」
当たり前やろ、と茜。
「こんくらい朝飯前や。荻野家の朝飯は、ウチの担当なんやで」
得意げに鼻を鳴らす。すごい。言葉の意味が全部合ってる。
自信満々に断言する通り、用意された料理からは美味そうなにおいが立ち上っている。
「お好み焼き以外に、料理できたんだな」
ほへー、と感心する真一を茜はどつく。当たり前やろ、ドアホ。彼女なりに手加減しているつもりらしいが、それでも痛い。背もたれつきの薄い座椅子に腰掛け、真一はおにぎりを食べた。
刻んだワカメが入ったおにぎり。瑞々しい。白米に和風の味付けがしてある。あれ? うまいぞ? 疑問符付きの独り言に、当たり前やって何回言わせるねん。呆れ顔で茜は答える。ツッコミさえ入れてこない。
「米を出汁で炊くのがミソ。あんたの家、鰹節なかったから顆粒出汁使った。味噌汁も漬物も有り合わせのもので作ったから本領発揮できてへん。お母ちゃん仕込みのプロの技を完璧に披露できんのが心残りや」
勝気な顔を悔しそうに歪める。思わぬミスで敗退したアスリートみたいだ。彼女の中で「料理」とは勝負事であるらしく、拳を握りしめている。
凝り性だなー、と思いつつ真一は汁椀に口をつける。豆腐が入っただけのシンプルな味噌汁だがこれもうまい。作る過程で様々な工夫が施してある。
荻野家の朝食は、旅館レベルのこれが出てくるのか。お前の天職、警察官じゃないよ、という確信を真一はますます強くする。
食欲のままにがつがつとご飯を頬張りながら、漬物を食べ、味噌汁をすする。
いいな、いいな。
こいつ、嫁に来ないかな。
いや、嫁にすると怖そうだから、料理だけ作りに来ないかな。漫画やアニメのキャラクターに、そういう幼馴染がいるよな。
あのポジションに上手くおさまってくれないかな……。
雑念を右から左へ流しつつ、料理のほとんどを平らげたところで、ふと手を止めた。
和風の長皿にはおにぎりが一つ残っている。
「飯、まだある?」
「ないよ。凛姉ちゃんとあの女に作った分でおしまい。怪我人は、腹八分で我慢せえ」
真一はお腹を撫でる。腹八分目どころか三分目くらいだ。お腹が空いている。おにぎりを見るだけで、よだれが出てくる。
だけど……だけど……。
「おにぎり一個、我慢する」
「なんでやねん」
「相棒にくれてやる」
「なんやそれ? あ、ドラマの話?」
ウチもあのドラマ好き! シリーズ全部見とる! あんた語れるクチか? 前のめりになる茜に対して、「なんでやねん!」とツッコミ返しをしたくなる。
真一は後ろ髪を引かれながら、おにぎりの乗ったお皿をお盆に戻した。
「フィアスが帰ってきたら食わせるよ」
フィアス兄ちゃん? と茜は首を傾げる。
「どこ行ったん?」
「仕事だよ」
「この有事にホストクラブ開いとるんか?」
がくっと真一はずっこける。
「お前な、ボケなのかツッコミなのかはっきりしろよ」
「えっ、ホストとちゃうん?」
「違うよ。テロを止めに行ってるんだ」
「正宗のおっちゃんと?」
は? と真一は聞き返す。思い出したように茜は告げた。正宗から着信があって、フィアスと同行していることを。
電話をかけてくるな、と釘を刺されたことを。
茜の話を聞きながら、真一は唸った。
あのヤクザが見計らっていたタイミングは、これだったか。
一ヶ月間、飄々とした態度と同時存在していた確固たる意志。真一が恐ろしいと感じたもののすべてをぶつけに行った。その怒りは、鋼のように冷たく重々しいフィアスの怒りと種類が違う。
花火のように激烈で熱い、狂気染みた怒りだ。
水と火ほどの違いがある二人の男が共闘することになるなんて……。
「おにぎり、一個じゃ足りないな」と真一はつぶやいた。
なんだろう、この胸のざわめきは。うずうずうして、居ても立っても居られない。
胸に手を当てる。
小麗と目が合う。武人の性が敏感に動きを察知して、怪訝な視線を向けてくる。
どうした? と問われたところで説明できない。
凛は曖昧に微笑んだ。
そのとき、障子がそっと開いた。二人は同時に目を向けた。細い幅の向こうで、茜がコイコイと手招いている。
「小麗、ちゃんと恨んでいなさいよ。戻ってくるまで、あたしを恨み続けてなさいね」と念を押して部屋を出る。
茜は大きな盆を持っていた。
差し入れ、と小さくつぶやき、和食の載った盆を床に置いた。
「茜ちゃんが作ってくれたの?」
「うん。凛姉ちゃんと、あの女の分」
ひそひそ声をさらにひそめて茜は告げる。
「凛姉ちゃんが持っていってや。あの女の顔見たら喧嘩売りそう」
かつて小麗に喧嘩を売って、返り討ちにあった凛は大きく頷く。戦意喪失しているが、小麗は武道家だ。一般人では敵わない。下手に火種をまかない方がいい。
「あたしたち、か弱い女の子だもんね」と同意を求めたところ、「そんなでもないよ」とこざっぱりした答えが帰ってきた。
「か弱い女なんてこの世におらんのとちゃう? 全部、男の妄想とちゃう?」
凛は苦笑を禁じ得ない。
相変わらず、シビアな価値観だ。シビアというか、現実的というか。
「茜ちゃんってかっこいいよね」
「凛姉ちゃんもかっこええやろ」
「そんなことないよ」
「無自覚とは、恐ろしいな」
あははは、と笑いながら立ち去ろうとする茜を止めた。あれから、テロ事件はどうなったんだろう?
携帯電話もテレビもないので、情報が入ってこない。
そうねぇ、と言い澱みながら女子高生はスマートフォンをスワイプする。
「警戒警報は収まっとらん。公的機関もサーバーが落ちて見られなくなってる。ただ、鎮圧には向かっていると思う。フェイクニュースも混じっているけど、犯人を確保してるところ見たっていう発信や写真がたくさん載っとる。大災害になる前に、特殊部隊が押さえ込んでるって感じかなぁ……」
ぱっぱといくつかのアプリを開閉しならがら茜は言った。なんや知らんけど……、と自信なさげに大阪弁の決まり文句を付けくわえて。
画面に映る情報から、凛も被害状況を察知した。事態は収集に向かっている。テロ鎮圧は時間の問題だ。
ただし、それは現状のテロ事件の話、根本を潰さない限り、赤目は量産され続ける。警察の戦いは対処療法でしかない。真の問題解決はネオを殺して、赤目のコピーを止めること。
それは、先天遺伝子を駆逐する遺伝子を持つ、彼にしかできないことだ。
不安顔の凛を見て、茜がそっと話題を変えた。
「それ、兄ちゃんからもらったん?」
胸元を指差す。何気なく弄んでいた指輪を、当の凛さえ気に留めていなかった。
きれいな指輪、と茜は言った。
「もしや……エンゲージリング?」
違うよ、と凛は小さく笑う。
エンゲージリング。考えたこともなかった。
「これはね、姉妹の形見なの。彼が持っていたものをくれたんだ」
「なんや、色々と訳ありやな」
「そうなの。訳ありすぎるくらい」
なるほど、と茜は優しく頷いた。
「とにかく、姉ちゃん、ご飯食べて。ウチの料理、めちゃうまやで。冷めないうちに早よ食べて」
「ありがとう、茜ちゃん」
盆を受け取り、部屋に戻る。
いらない。敵の情けは受けない、と固辞する小麗をなだめすかして、おにぎりを食べさせた。
あんたね、生命を助けた時点で十分な情けを受けているのよ。ここで意固地になってもしょうがないでしょ。
穏やかな呆れを表情に出さないよう我慢しながら、渋々ご飯に口をつける小麗を見守る。不服な顔をしつつも、彼女は料理を平らげた。空腹だったらしい。
ロクに物も食べず、恨みの念だけでここまで突っ走って来たんだろうな、と凛は思った。
彼女らしい真面目さだ。やっていることは笑えないが。
お皿をすべて空にした後も、小麗は納得の行かない顔をした。こんな奴らに生かされるとは屈辱の極みだ、と思っているようだった。
ぱくぱくとおにぎりを食べながら凛は言った。
「怪我の具合が良くなったらお風呂に入れてあげるね。チャイナドレスは洗濯機に掛けているから、乾いたら持ってくるね。オススメの化粧品も分けてあげる。可愛いすぎて着れてない下着も、お気に入りのアクセサリーも全部あげる」
「私をからかっているのか」
ムッとする小麗に、微笑みを返す。
「貴女は美人なんだから、もっとお洒落をした方が良いよ」
思ったことを告げると、彼女は俯いてしまった。
膝下に掛けたコートを撫でながら、遠い眼差しで思い出に浸っている。凛もしんみりと俯く。
何を語らずとも、仕草で分かる。
同じアドバイスを、彼女は過去に受けている。
凛は再び、胸元のリングに手をかけた。
ざわめきは収まらない。小麗を見る。お腹いっぱいご飯を食べた人は、おそらく自殺を図らないだろう。
安静にしているのよ、と言い残して縁側へ向かう。
ガラス戸のしまった縁側から庭先が見える。いつの間にか雨が降っていた。今朝はあんなに晴れていたのに、昼の空は憂鬱に曇っている。糸のような霧雨が、庭先を白く煙らせた。心に漂う不安な気持ちも晴れない。
ねぇ、ちゃんと帰ってくるよね?
荘厳な庭先を眺めながら、心の中で問いかける。
あたし、約束を守っているよ。
真一くんも、約束を守ってくれた。
貴方も、守ってくれるでしょ?
池にかかった太鼓橋。
紅色の橋の上に、人影が見えた。
白い小雨の中に溶けてしまいそうな、金色の髪。そして、黒いスーツ。
凛は目を見張った。
彼だ。
彼がいる。