自己暗示が解除された。ヨンは意識を取り戻す。
シドには打ち明けなかったが、かなり危険なやり方を用いた。戦場は本来の自分に立ち返る場所であり、偽物の人格を演じる劇場ではない。
しかし、賭けは成功した。
ヨンは辺りを見回し、ここが八階であることを確認する。食べ物の焦げたにおいが充満している。最上階はレストランフロアだ。どの店も惨劇に見舞われている。食事処。生きるための場所で、死に捕われた不幸な人たち。空腹のまま生き絶えた客たちは、地獄で餓鬼と化すのだろうか。
この国はブッディストが多いから、大人しく「寝室」へは向かわなさそうだね。
そんなことを思いながら、気配を潜めてフロアを移動する。
階下から激しい撃ち合いの音が聞こえる。宿敵同士が相まみえたらしい。互いが互いを亡き者にすることに集中している。
ヨンは影のように一帯を移動する。フロアの一角に小さなキッズルームがある。一階からしらみつぶしにフロアを探し回って最後にたどり着いた、この場所にフィオリーナが捕われていると見て間違いないだろう。
果たしてその場所は麻作りの
聴覚を強化する自己暗示をかける。物音はしない。生きた人間の鼓動も聞こえない。階下の激しい銃声が耳をつんざく。うるさい男は嫌いだよ。ヨンはしわがれた指先で、ボリュームをしぼる仕草をする。階下の銃声が小さくなる。
すると、銃声とは別に、最上階からヘリコプターの音が聞こえた。報道ヘリ? 自衛隊の偵察機? 否、ネオの逃走手段が濃厚だ。
敵の退路は空しかない。この建物に籠城したのは、やってきた我々を一掃するため。復讐者たちの始末を終えたのち、空へ逃げる計画を立ててている。木を隠すなら森の中。集団テロで各機関のヘリコプターが飛び交う今、高飛びをするにはもってこいだ。
天幕の中に人の気配はしない。
フィオリーナは一足先に運び込まれてしまったのか。わずかな諦念を抱いて、幕の中に入る。
やわらかな素材に囲まれたキッズルーム。パステルカラーに彩られたファンシーな空間。すべてのフロアとは違い、この場所だけ血痕一つついていない。「聖域」という単語がヨンの頭に浮かぶ。
その「聖域」に、生者はいない。
数名の死体が転がっている。彼らもこの場所と同じ、シミ一つない白衣をまとっている。ヨンはその場に伏した全員の首の骨が砕かれているのを確認する。彼らは同じ方法で、「寝室」に誘われた。
獣たちとは天と地の差、とても美しい殺し方だ。ほとんど神業と言って良い。
この御業を成したのは……。
ヨンは死体を縫うように通り抜け、キッズルームの最奥に向かう。そこには大人用のシングルベッドが設置されている。
もぬけの殻。枕元に落ちた数本の髪の毛をつまみあげる。絹糸のように美しい金髪だ。
……どこに行っちまったんだい、フィオリーナ?
ヨンは微かに温かみが残る、ベッドの上に手を這わせる。
そのとき、わずかなノイズが散った。
どこからか、彼女の声が聞こえ始めた。
その言葉は、天井のスピーカーを通して聞こえた。店内アナウンスだ。日本語ではない。この発音、この単語は、彼女が生まれ落ちた国――ドイツの言葉だ。
「ネオ」という名詞は聞き取れたが、話の内容がまるで分からない。
その放送はかなり端的なものだった。時間にして一分程度。すぐに通信が切れた。
ヨンはフロアマップを思い出す。この建物内に放送室はない。フィオリーナは従業員用のマイクロフォンを借用したらしい。放送の最中、痛みを堪える荒い息遣いや、咳き込む声が紛れていた。
言葉の意味は分からない。しかし、話し方から感じる。彼女の疲労や体力は限界に達している。
それもそのはず、保険用に掛けた暗示が効いている。作戦開始から三日以内に死ぬ暗示。丁寧に施した我が術は、先天遺伝子の回復力の大部分を削いだ。時間の問題で、フィオリーナは「寝室」へ向かう。
ヨンは腕を持ち上げて、指先のボリュームを上げる。階下からうるさい銃声の音が戻ってくる。撃ち合いは終わった。銃撃は一方的だ。追撃をかわし、何者かがやってくる。ものすごいスピードで。この超人的な素早さは、先天遺伝子。ネオだ。
おやおや、まずいね。とてもまずい。
気配を最小限まで鎮め、老婆はキッズルームの影に身を潜める。自分はあくまで観測手。自己暗示をかけて五感を強化したり、
コンを呼ぶか? いや、そんな時間はない。
……これが最後の観測になるかな?
わくわくしつつ、様子を伺う。
同階にやってきたネオは、ヨンに目もくれなかった。焦りが先立って、周囲に気を配る余裕を失っていた。彼はエスカレーターの周りに置いた重厚な家具を軽々と持ち上げ、エスカレーターに向けて転がした。轟音とともに階下へ通じる道を塞ぐ。それもまた素早いスピードだった。
キッズルームに来るかと思いきや、矢のようにフロアの出口へ飛んで行った。超人的というより、物理法則に近いスピード。残像を目で追うのもやっとだ。
外階段へつながる扉が大きく開き、再び轟音。バリケード。
彼が目指す目的地――フィオリーナの居場所が掴めた。
ヨンは通信機に口を近づけ、言葉を発した。
「シド、聞こえるかい? フィオリーナは屋上にいるよ」
――シド、聞こえるかい? フィオリーナは屋上にいるよ。
宝石売り場ではしゃいでいたコンが表情を失う。すぐさま首元のスピーカーから老婆の声が聞こえた。
「なんだって?」とシドは驚きの声を上げる。先ほど、フィオリーナの店内放送を聞いたばかりだ。理解できない異国語で発せられた、短い伝言。彼女は屋上に逃げ延びたのか。
――ネオも屋上に向かった。
「フィオリーナを捕まえにいったのか?」
――おそらくね。そのまま空へ逃げる気だろう。
「まずい! まずいぞ!」
ちょっと待て! とヨンに告げ、シドは腕につけた通信機のボタンを押す。
何度目かの発信で、応答があった。
怒鳴るようにシドは伝える。
「フィアス! 聞こえるか? ネオは屋上に向かった! 屋上だ!」
反応がない。通信機は繋がっているのに、返答が来ない。
「フィアス、聞こえているのか? 応答しろ! 何か言え!」
数秒の沈黙ののち、通信機から声が聞こえた。低くしゃがれた気楽な声。正宗だ。
――今、喋れる状態じゃないんだよな。
シドの背筋に怖気が走る。
――いや、死んでねぇよ。生きてるよ。
絶句したシドの先を読んで正宗は答える。
生きてる。生きてはいる。ちょっと待ってろ、と言い置いて音声が遠ざかる。
通信機の向こう側、微かなやりとりが聞こえる。正宗がフィアスに何かを伝えている。ゆっくりと、噛み砕くように言い聞かせている。
恐ろしく優しいやりとりだ。
仲間の死よりも恐ろしい怖気が、シドの背筋を凍らせた。
しばらくして、正宗は言った。
――屋上行くって言ってる。たぶん。