笹川邸に到着する直前、連絡があった。それは凛からの着信だった。話し合いが終わったらしい。
 フィアスは腕時計を見る。笹川邸を出てから五時間が経過していた。体感的には二時間程度に感じられたが、現実では二倍以上の時が流れた。五時間。その時間が隔てていた十七年の時を凝縮し、互いの境遇や事情を把握し合うのに適した時間かは分からない。
 ただ、複雑な関係にある肉親と膝を突き合わせるにしては過酷な長さだ。
 電話先の凛の声は疲れ切っていた。吐いた呼吸に乗せるような話し方で、終わった、と告げた。
 終わった。頭の中、うまく整理できていないけど。一応の事情は理解した、ということを淡々と話し、凛は少し間を置いた。
――悲しくないけど、泣きたい気分。
 泣きたい、と言いつつ、凛はくすりと笑った。ただしその笑いも、重々しい疲労をまとってぼやけていた。
「少し休んだ方が良いな」
――そうね。かなり眠い。でも、きっと眠れない。
「もう帰り着く。少し待っていてくれ」と言ってフィアスは電話を切る。眉間に寄ったシワをほぐし、短く息を吐く。
 それだけで、この五時間に発露した感情のすべてが切り離された。死ぬ気で身につけた、素晴らしい職業病の一つだ。彼女と向き合う際、たびたびこの方法を使わなければならないことに引っ掛かりを覚えるが、それは一瞬の違和感で、すぐに消え去るほどささやかなものだ。
 五分も経たず、笹川邸にたどり着く。今は凛に会えない。何かあったのバレそうだから、と弱腰な真一を後に残し、フィアスは車のドアを開けた。
 薄暗い屋敷の玄関前に凛が立っていた。フィアスを見つけて近づいてくる。綱の上を渡るような、覚束ない歩き方だ。
 こちらも早足で彼女のもとへ駆け寄った。
 近づくにつれ緊張していた凛の顔が緩んだ。力の抜けた笑顔だった。それは泣き顔にも見えた。頭上の空模様と同じく、その顔は曇りがかっておぼろげで、自分を立て直すり所を求めていた。
 抱擁は、倒れかかるように危なげだった。
「十秒」と凛は言った。
「十秒、このままでいさせて」
やがて密着していた身体を離すと、フィアスを見上げた。その顔は眠気のあまり、ある種の幸福感に包まれていた。長話の途中で泣いたのか、大きな目の下は化粧が滲んで黒くなっていた。
 フィアスは掛ける言葉を探しながら、無意識にその黒い痕を親指で拭った。その後で女性にとってこの行為は心外かも知れないと感じたが、凛は何も言わなかった。顔に触れたことにすら気づいていない様子だった。
「君は、自分が思っている以上に疲れている。部屋を借りよう。眠れなくても横になった方が良い」とフィアスは提案する。
しかし、その言葉もうまく届いていないようだ。返答はなく、焦点の合わない目で頭上を見上げ続けている。
 混乱しているのか、放心しているのか。とにかく、いつもの精神状態でないことは確かだ。
「部屋まで運ぶ。抱き上げるぞ」と断って、フィアスは凛を抱きかかえた。
 広い庭園を横切って、屋敷に向かう途中、夢見る声で彼女は言った。
「意味があったの」
「意味?」
「あたしと正宗が再会したことには、意味があったのよ」
 意味があった。確かにその通りだろう。十七年前の秘密がつまびらかになったのだ。正宗は余すところなく語ったはずだ。姉妹が組織に育てられた理由や、特殊な遺伝子を持つ母親の末路、彼が<ベーゼ>という研究施設に幽閉されるまでの出来事を。
 何重にも重なった真実の矢は、凛の心を射抜いた。体調や精神状態に異常を来すほど、その話は意味のあるものだった。
 フィアスが黙ったままでいると、凛は手を伸ばしてその頬に触れた。
 そして、眠たげな声で繰り返した。
 あたしと正宗が再会したことには、意味があった。


 車を車庫に止め、真一は外に出た。笹川邸の裏門にある車庫からぐるりと半周して表玄関に出るのも時間が掛かる。歩きながら、ぱんぱんと頬を叩く。この程度で表情のぎこちなさを解消できたとは思わないが、心機一転しんきいってんに多少は役立つ。
 いつも通りとは行かないまでも、沈んだ気持ちを悟られないように、凛と会話ができればいい。
「よぅ、浮かない顔してるな」
意図せぬ場所から声が掛かり、真一は飛び上がった。知らない人の声だ。面識のない笹川組の若衆にしては、渋い声色で落ち着いている。
 辺りを見回すが、誰もいない。
「こっちだよ。車庫の裏だ」という声に招かれ、車庫の裏側へ回る。
 男がいた。年のほどは四十代前半。黒々としたロン毛に無精髭、革のジャンパーにジーンズといった出で立ちで、煙草を吸っている。
 気楽な佇まいだが、目つきにキレがある。
 芸能人だ、と真一は思った。俳優かミュージシャン。男は年嵩だが男前だし、何かの紙面でその顔を目にしたことがあった。
 しかし、一瞬でその考えを否定した――なんで俺んちの車庫の裏に芸能人がいるんだよ。それから、激雷げきらいのようにある名前が降ってきた。
 龍頭正宗。
 彼こそ凛の父親で、我が祖父・笹川毅一と兄弟盃を交わした<ドラゴン>ではないか。
 誌面で目にしたことがあったのは、〈3・7事件〉の犯人として新聞に載っていたからだ。
 真一は緊張に身をかたくする。
 十五人殺しの<ドラゴン>……あの大量殺人は濡れ衣であったとしても、笹川組から破門され、祖父と険悪な関係になっている彼に対し、どう接すれば良いのか。正宗の方も笹川組の人間と関わるのは心理的な抵抗があるはずなのに、どうして声をかけてきたのか。
 っていうか、俺の心が沈んでいるって、どうして分かったんだ?
 正宗は吸いかけの煙草を投げ捨てた。
 にやり、と不適な笑みを浮かべながら真一の肩に腕を回す。ちょっと顔貸してくんねぇかな? そして、瞬く間に死角へと引きずり込む。
 ヤクザがカモを逃がさないようにするやり口だ! と真一は気づくがもう遅い。
「なあなあ、お前、若様だろ。名前なんて言ったっけ?」
「本郷真一っす……」
「あー、そうそう、真一くんだ。でっかくなったな。俺のこと覚えてる?」
「お、覚えてないっす……」
「そうだよなぁ。最後に会ったの十七年前だもんな。いやぁ、時が経つのは早い。やっぱ真一くんはヤクザやってるわけ? え、違うの? 何でも屋? へぇ、笹川組とは関係ないのか。良い時代になったもんだ。ところで、うちの娘と友達なんだって? どこで知り合ったの? なるほど、そんな経緯があったんだ? それじゃ、あの金髪のガキとは? ほうほう、アメリカにねぇ……」
真一が逃げ出す隙を与えず、正宗は質問を畳み掛ける。その気迫はすさまじく、嘘やごまかしは通用しない。凛が<サイコ・ブレイン>を抜けて自分たちのもとに降った経緯や、この場所にたどり着くまでに起こった事件の数々を余すところなく聞き出し終え、ようやく質問が止んだ。
 湧いていた興味が嘘のように消えた。骨についた肉の残りをしゃぶりつくした犬のように、正宗はぱっと真一から離れ、二本目の煙草に火をつけた。
 OK。事情は分かった。もう行って良いよ。正宗は煙草を吸いながら、投げやりに言った。
 むっとして真一はその場に踏み止まった。俺は情報のATMじゃねぇ! むかむかと怒りが込み上げてきた。勢いに圧倒されてしまったが、この男に情報を提供する義理はないのだ。敵か味方かも分からないのに、油断した。
 不機嫌さが表情に出ていたらしい。したたかな正宗と甘っちょろい自分に対する、混在した苛立ち。その感情の内訳は、恐ろしいほど正宗に読み取られていた。
 にやにやした彼の顔から、真一は自分の内面が見透かされていることを知った。
 彼を取り巻く鋭さは、千里眼せんりがんじみた感受能力に起因するようだ。
「ごめんな、若様。利用するだけ利用してポイは、男でも気分が悪いよな。なんか質問ある? なんでも答えるよ。ちなみに、初体験の年齢と抱いた女の数は覚えてない」
そんなの知りたくねぇよ。ムスッとした真一の顔に返答を読み取って正宗は笑っている。
 これ以上、心の中を読み取られるのはごめんだ。
 真一は考える。質問……質問か。この男について知りたいことはぱっと考えただけでは思いつかないが、こちらも何かしらやり返さなければ気持ちが収まらない。
 手始めに、こんな質問を投げてみる。
「凛との話し合いは、上手く行きましたか?」
「ストレートな質問だな。ま、殴られることはなかったよ。泣かれたけど」
「上手く行かなかったってこと?」
「上手下手って問題じゃないな。俺は凛に必要なことを伝え、凛は必要なことを受け取った。質疑応答があって、わずかな感情のやりとりがあった。伝えるべきことは伝えたと思うが、解釈は人それぞれだからな」
真一はに落ちない。関係は良好なのか険悪なのか、はっきりしない答えだからだ。強いて言えば、理屈っぽい。飄々ひょうひょうとした態度の割に、正宗は他人の感情を納得させる話し方をしない。イエスかノーで答えた方がこの場が丸く収まるのに、淀みなく飛び出る言葉は、確信の周縁を回るだけだ。
「凛は、父親に会うのを迷っていましたよ。すごく緊張してた」
「ああ、初めのうちはカチコチだったな。うつむいたまま、一言も喋んなくて……親子なのに初デートのムードになっちゃったから、俺は言ったんだ。よぅ、美人になったなって。そしたら凛は、お父さんってこんなにイケメンだったっけ? って笑った。ますます親子っぽくない会話になった。だから俺は言ったんだ。俺に似て良かったな。あたしも彩も同じ顔だからお父さん似なの? って凛は聞いた。違うよ、と俺は答えた。彩は母親似で、お前は父親似。ガキの頃なんかきれいに分かれてたよって。凛は嫌そうな顔してたな。お母さん似が良かったのにって文句を言われた」
真一は微かに笑った。客間で相対する龍頭親子の姿が容易に想像できた。
 電話先の凛の声は疲れているように聞こえたが、割と和やかに話し合えていたんじゃないか。
 正宗は三本目の煙草に火をつけた。予想していた通りの質問を受けて退屈そうだった。真一がなんとなく質問を投げかけていることにも気づいている様子だった。
「大人は忙しいんだよ。用がないなら友達んとこに帰んな」
しっしっ、と追い払う仕草をする正宗。
 真一は苦笑する。子供のころ、そんな風に近所のおじさんたちから邪険にされたことを思い出した。それは笹川組の「若君」として、おそれとともに認知される前、近所の悪ガキとして名を馳せていた頃のことだ。正宗は笹川組の元・幹部だが、「若君」の真一を恭しくもてなす気はないらしい。そこに好感を持った。
「最後に一つだけ良いっすか?」と笑いながら真一は聞いた。
「凛と話し合って、正宗さんはどう思ったわけ?」
 すぐさま、こんな質問をするんじゃなかった、と真一は後悔した。
 正宗の心情を尋ねた瞬間、取り巻いていた緩やかな雰囲気が百八十度逆転した。天候まで変わるような変貌ぶりだった。照っていた太陽が、怯えたように雲間に隠れた。
 薄暗がりの中、彼の持つ元来の鋭さが、今にも放たれる矢となって全身を取り巻いた。
 力強い目は怪しく底光り、彫りの深い顔立ちが極度に厳しく引きつった。
 パンドラの箱だ、と真一は思った。
 それは開けてはいけない箱、聞いてはいけない問いだった。
 しかし、もう止められない。なんでも答えるよ、と約束した手前、彼はこの質問に答える義務がある。
 怒気に近い強烈さだが、正宗は笑っていた。歯噛みに似た笑みはお伽話に出てくる悪魔に見えた。
 怒りと喜び。相反する感情が同居している。風雨の入り乱れた台風のように。
「溝は埋まらねぇ」と正宗は答えた。
「この溝は残り続ける。俺が死んでも、凛が死んでも。未来永劫みらいえいごう、残り続ける」
真一はごくりと唾を呑んだ。この男は、近所にいる気立ての良いおじさんたちとは違う。全然違う。「笹川組」の幹部たちとも一線を画している。
 狂人に近い天才。あるいは、天才に近い狂人。
 <ベーゼ>に幽閉されていなければ、正宗は何らかの偉業(あるいは犯行)を成し遂げていたに違いない。「二面性」という表現では浅すぎる。相反する性質は、入れ替わることなく同時に存在している。
 複雑すぎる彼の内面は、真一の理解を超えていた。
 挨拶もそこそこに、後退あとずさるように真一はその場を後にした。
 狂気と理性が同居する人間に出会ったのは初めてだ。
 だから、あんなに飄々としているのだ。心に巣食う激情を隠すために。
 屋敷に向かいながら、凛のことを考えた。
 あの男と出会わせて、凛は正常でいられただろうか。
 正宗は自分と他人を切り分ける。血の繋がった親子でさえ、気持ちを通わせることなく真実を告げただろう。
 凛の心は耐えられただろうか。
 真一は心臓を抑えるように、ジャケットの襟元えりもとを握りしめ、玄関扉を開けた。