昼間は小奇麗なカフェ、夜は怪しいスナックが明かりを灯すその通りに真一の事務所はあった。「Sherlock Holms」と看板が出ている小粋なBARの2階に、看板も張り紙も出ていない、空き家とも思われるような事務所だ。
真一の指示に従って、フィアスはその通りに出た。立ち止まって辺りを見回すと、人ごみの中に一際目立つ服装の男が手を振っていた。趣味の悪い柄シャツに、昇り龍がプリントされたダメージジーンズを履き、目には黄色いサングラスをかけるという出で立ち。服装から、少なくとも良識的な職業に就いている人間ではないことがすぐ分かる。
 道行く人間も、その男の姿にちらりと目をやると、毒気にでも当てられた顔をして通り過ぎていく。本来ならフィアスも郷に従うところだが、それが知人なのだからどうしようもない。
「よぉ、今さっきぶりだなー」
よく分からない挨拶をして、本郷真一はサングラスを胸ポケットにしまう。色ガラスで黄色に見えていた目が、東洋の黒い瞳に変わる。その目をウンザリしたように宙に向けて真一は言った。
「本当に勘弁してくれってカンジだよな。あいつ、家宅侵入罪で逮捕できるぜ」
“あいつ”とは先ほど話していた取立て屋のことだろう。真一は不満そうに眉根を寄せた。
「さあ、ちゃっちゃと殴って追い返してくれ……出来るもんなら、な」
まるで戦場を生き抜いてきたBLOOD THIRSTYでも手に負えないだろうと予想しているような、挑戦的な物言いだ。それに逆らうように拳を鳴らして、フィアスは真一の事務所へと続く屋外階段を上がる。後ろから真一がこそこそと隠れるようにしてついてきた。
 何でも屋へと続く階段を上りきると、三メートルも廊下を行かないうちに、行き止まりになっていた。壁際には、アルミ金属の白灰色のドアがひとつだけ取り付けられている。物置の出入り口のような、安っぽい扉である。ドアの下には緑色のシューズマットが一枚。それ以外、特に目立つものはない。
 ここが「横浜では名の知れた何でも屋」の本舗だということが信じられないくらい簡素な入り口だ。「何でも屋」の文字すら見受けられないのに、ここに客足が絶えないのは、宣伝をしなくても口コミで噂が広まっているからだろうか。
 フィアスは音をたてずに、ドアの横に回りこんだ。「お前が開けろ」小声で真一に合図を送る。真一はしきりに嫌だ嫌だと、手をうちわのように煽いで拒否していたが、「部屋の主であるお前が、扉を開けないことには始まらないだろ」というフィアスの殺気のこもった声に観念して、ドアノブに手をかけた。
「本当に、追い払ってくれよ」
真一がゆっくりとドアノブを捻り、開扉した……瞬間。
ひゅっ、という風を切る音がして、小物体が投げつけられてきた。時速三十キロ程度の速さで飛んできたそれを、真一にぶつかる前にフィアスが平手で払い落とす。バン、と響きのいい音がして、それは床に衝突し砕ける。もちろん、小型爆弾の類ではない。
バラバラに砕けた電子部品と、直径十センチほどのディスプレイ、それに乾電池が四個、四方八方に散らばっている。砕け散った破片の一つには、有名なゲーム会社の会社名……今話題のハンド型ゲーム機だった。
「お、俺の―――っ!」
真一が悲鳴をあげるが、もう遅い。時価一万円八千円の万能機器も大小さまざまな形で砕け散ってしまったのではただの危険物である。
「電子物品にしては珍しい末路だ」
淡泊なフィアスの感想をよそに、真一はズカズカと大またで部屋の奥へと進むと、窓の前に立ちこちらに背を向けている人物に向かって怒鳴った。
あかね―――っ!」
「うるさ―――いッ!」
怒鳴られた人物は、真一の声よりも二倍は大きい声で怒鳴り返す。怒鳴り返された真一は反射的にやや体をのけぞらせた。その一瞬の怯みを、部屋を占拠した取立て屋は見逃さない。窓と向かい合うのをやめて、振り返る。その拍子に、長いポニーテールが綺麗な弧を描いて揺れた。同じように、履いているスカートも広げた傘のように丸く膨らむ。
 窓からの逆光を受けて、その人物はキラキラと輝いていた。
「何やのアンタ、部屋に入ってきた途端喚き散らして!」
威勢よく真一を怒鳴りつけた「取立て屋」は、あどけない少女だった。
 年でいえば十五、六歳だろうか、好き勝手にカスタマイズした制服に身を包み、仁王立ちのまま腰に手を当てて真一を睨んでいる。化粧っ気のない顔、小麦色の肌、余分な脂肪の一切付いていない体のラインからアクティヴな印象を受ける。今のやりとりから、かなり勝気な性格であるようだ。ここが学校ならともかく、闇仕事大歓迎!の何でも屋に彼女の存在は違和感がある。
 少女の顔は怒りに歪んでいた。
「真一、今まで何しとったん!?」
目を三角にしたまま、甲高い声で彼女は詰問した。
「それより、俺のゲーム!」
「そんなん、今関係あらへんやろ!」
真一の抗議は、彼女の怒鳴り声に消され手も足も出ない。押しの強さでは圧倒的に少女の方が勝っている。
そのことを悟ったのだろうか、真一は二、三歩後ずさると、素早くフィアスの後ろに身を隠した。
「さあ、この女を追っ払ってくれ!」
フィアスの背後から真一が少女を指差す。少女は鼻息荒く、仁王立ちのままいささかも身じろがない。目はギラギラと攻撃的な炎を宿し、釣りあがった唇の端からは白い歯が見えた。むき出しの闘志から今にも陽炎が立ち上りそうだ。
 フィアスは黙ったまま身を翻すと、後ろでファイティングポーズを取っていた真一の横をすり抜け、何でも屋の出口へ向かう。ドアノブに手を掛けようとしたフィアスを、真一は慌てて止めた。迷惑そうに眉を歪ませてフィアスは真一を見る。
 真一は曖昧な笑みを浮かべながら、部屋の奥――少女がまだ仁王立ちのまま立っている――を親指で指し示した。
「〝追い払ってやる〟んだろ、BLOOD THIRSTY?」
「俺の仕事じゃない」
「だけど、約束したじゃんか。一度引き受けた仕事は必ず遂行するのがアンタの主義だったよな?」
確かに、そのようなことをアメリカに向かう飛行機の中で話した覚えがある。フィアスは目を瞑って頭を二、三度振った。直りかけていたと思った朝の直下型頭痛が新たに波打ってきたのだ。小波の頭痛はやがて津波を巻き起こす。そうなる前になんとかこの状況を打開したいが、中々手強そうである。
少女は、初めてフィアスの存在に気づいたようだった。部屋の奥から疑惑に満ちた暗い目でフィアスを見つめた。
「アンタ、誰……?」
声の響きは先ほどと比べて低く、落ち着いている。
「俺の友達」
少女の質問に、フィアスの代わりに真一が答えた。そんな関係を持っている自覚は全くないフィアスだったが、一応頭を下げる。
 ふーん、と呟いた割に少女は身を硬くしたまま動かない。場所が何でも屋だけに、フィアスを警戒しているようだ。ただ瞳だけは相変わらず貪欲な輝きを放ち、隙あらば殴りかかってきそうな雰囲気さえある。
「……友達、ねぇ」
少女は暫く、フィアスを上から下まで、検問する警察官のようにじろじろと眺め回していたが、
「ありえへん!」
と一声怒鳴ると相変わらず怒った顔で、今度はフィアスを睨んだ。
「アンタ、六本木の人間やろ! あんな大盤振る舞いで金使う所に、真一を誘わんといて。コイツは、金ヅルにも何にもならん」
そして素早く駆け寄ってくると、フィアスの隣にいた真一のシャツの胸倉を掴む。その間、わずか十秒足らずだ。彼女は、フィアスに目もくれず、真一の首を絞めて揺さぶる。
 ぎゅぅ、と真一が苦しそうな呻き声をあげた。首を絞められた真一も必死だが、締める少女も必死に見える。ぜーぜーと息も絶え絶えに、それぞれの額には玉のような汗が浮かんでいる。
 フィアスは二人の傍から先ほどまで少女がいた窓際に移動し、遠巻きにその攻防戦を眺めていたが、いまいち彼らの内情が掴めない。一体、この二人はどんな繋がりがあるのか、何故この少女は真一に恨みを持っているのか、何を返してほしいのか。
 そんなことを考えているうちに、早くも真一の顔が真っ赤になり、少女の息があがりきる。二人の攻防戦が峠を越えた頃を見計らってフィアスは聞いた。
「金を払えばいいのか?」
背後から発せられた流暢な日本語に、ぎょっとして少女が振り向いた。目を大きく見開いて、フィアスの灰青色の瞳とプラチナブロンドを凝視している。
「兄ちゃん……日本語喋れるん?」
「まあな。それより金を払えばいいんだな。いくら払えばいい?」
「えっと、家賃九ヶ月分。五十万円」
この取り立て屋の少女は家賃を請求していたらしい。
「カードは……使えないな。小切手でいいか?」
「うん……」
口をもごもごさせている少女には構わず、フィアスは懐から長細い紙束を取り出した。一枚を切り取って、メモ帳に挟んであった万年筆を取り出す。すっかり意気消沈した少女は、借りてきた猫のように静かになると床をじっと見つめた。
 フィアスは少女の前に腰をおろして、青い何かの種類の花の絵が施された紙切れに¥500000の数字を書き入れた。その間彼女は一言も喋らずにじっと待っていた。案外、根は大人しい娘なのかも知れない。
小切手を渡すと、少女は暫くそれを眺めてから、
「さすが、ホストは支払いがええな」
何やら不可解な感想を述べ、すっくと立ち上がった。白地に青と紺のラインが入ったスカートの裾や紺のソックスについた埃を払ってから、後ろでむせている真一に冷ややかな視線を送る。
「命拾いしたな、真一。せやけど、次払えんようやったら、即行で立退いてもらうからな」
真一の前だけは、勢いを取り戻したようだ。手にした学生鞄を肩に担ぎ上げる。真一は喉仏を抑えたまま、曖昧な笑みを浮かべて少女を見ている。首の締めが効いていて、言葉が出ないようだ。
 少女はフン!と鼻を鳴らすと、事務所のドアを開けた。
 部屋を出て行く間際、フィアスは少女を呼び止めた。
「おい、お前は何者だ?」
少女が振り返る。
荻野おぎの茜。ちなみにうちの父ちゃんは荻野総次郎そうじろう。神奈川県警の刑事や。……兄ちゃん、えらい羽振りがええみたいやけど、法に触れるようなことしてたらアカンで」
皮肉なのか真摯なのか、荻野茜は不敵な笑みを見せる。対して、フィアスも苦笑するしかなかった。彼女に渡した五十万の殆どは裏世界の住人から手渡された報酬である。つまり、この娘も「敵」の部類に入るのだろうか、とフィアスは考えた。
 だとしたら、手ごわい強敵だ。
 やがて、荻野茜は、軽やかな足取りで、ドアの向こうへと消えていった。足音が完全に聞こえなくなってから、さらに五分経った後、真一がやっと口を開いた。絞められていた喉が回復したらしい。
「――それで、フィアスは何しに来たんだっけ?」
ガラリと変わった話題には、もう茜のことは聞くな、という暗黙の指示が乗せられている。今回ばかりはフィアスも同感だった。
今の出来事は一刻も早く忘れた方がいい、直下型頭痛がぶり返す前に。
「二億三千万の話だ。……いや、もう二億二千九百五十万か」
そうやって、フィアスは切り出した。