月が雲に隠れた。
暗がりの寝室に、長い沈黙が漂う。冷たさも暑さもない、白紙の状態が続く。
――可能性は、ゼロの方が良い。
自分の言葉を受けて、目の前の女性が何を考えているのか、フィアスには皆目見当がつかなかった。鋭い五感や、論理的思考力では解決できない問題に、自分は情けないほど無力だ。
これまでに何度も痛感してきたことを、またもや痛感せずにはいられない。
それでも、問題を解決しなければならない。
不得意なことでも。
覚悟を決めたなら。
「手を握ってもいいか?」
暗闇の中から返事は返ってこない。
フィアスは迷った挙句、手を伸ばして、白い手に触れる。意識を集中させると、相手の激しい鼓動や息遣いが、嵐のように耳を打った。
駄目だ、とフィアスは思う。こんなときに、相手の肉体を探るような能力を使ってはいけない――五感を閉じる。
すると、暗闇の中で、触れた手の冷たさだけを感じ取ることができた。
「リンの手は冷たい」思ったことが、そのまま口をついた。
「俺の手とは違う。リンの手は、小さくて、きれいで、冷たい……そういえば、初めてキスをしたときも、冷たかったな。真夏だったのに」
「……どうして、そんな風に割り切れるの?」
低い声が聞こえてくる。今まで聞いた中でも、とびきり低い凛の声だ。
「あたしには、無理よ」
語尾が滲んでいる。
人を殺せるからだ、とフィアスは思う。その質問に答えるならば。
私情を切り離さなければ、他人の人生を終わらせることは出来ない。
俺は、人殺しに快楽を覚えるタイプじゃない。
だから、感情を切り離すことを覚えたんだ。
そのことについて言及する代わりに尋ねる。
「君を本当に苦しめているものはなんだろう?」
「本当に苦しめているもの?」
「そう。自覚しているはずだ」
先天遺伝子の話をしたとき、彼女は話題をすり替えた。自己犠牲的な優しい嘘として。
そして今晩、自分を部屋に呼び寄せて、解決しようとした。愛し合うという行為を通じて。
彼女は、自身の苦しみの原因を知っている。
冷たい手は、触れているうちに、自分と同じ温かさになった。
雲に隠れていた月が、再び顔を出す。
蒼く染まった部屋の中、凛の姿がはっきりと見えた。彼女は無表情だった。裸の半身に構うことなく、ぼんやりと繋がれた手を見つめている。
やがて、乾いた唇が静かに告げた。
「すべて、仕組まれていたことだったの」
仕組まれていた? フィアスは言葉の意味を理解できずに反芻する。
……何の話だ?
「あの部屋で、小麗から聞いたの。ずっと実験させられていたんだって。あたしの、これまでの恋愛の全てが、ただの生殖実験。あたしの行動は、観察されて、録画されて、大勢の研究者たちに共有されていた。何年も、何年も……。好になった人はみんな、組織によってあてがわれた男たち。……それでもあたしは、出来損ないのネズミだったの」
淡々と話す凛の目から、涙はもう流れなかった。乾き切っていた、艶を失った唇と同じように。
手を引っ込めると、凛はずり下がったシーツを肩先まで引っ張り上げた。
触れようとすると起こる、身体の反応――それは、生殖実験に対する恐怖から、自然と身を守ろうとする行動だった。
自分が立てていた予測よりもひどい。先天遺伝子の子孫を作れる最後の適合者――表向きは「組織の女」として育てられ、裏ではデータを取り続けられていたなんて。
言葉を失ったフィアスを見て、凛は力なく微笑んだ。
「普通の女の子になりたかったの」
「普通の、女の子……」
頭にメモしたキーワードだ。真一との会話を思い出す。
〝女の子らしさって、強要されるとムカつくけど、自分の中に見つけられないと、不安になるもの〟なんだって。
「だからクッキーなのか」とフィアスはつぶやいた。
女の子らしくて、可愛いもの。
本能的な欲求を満たすものでは意味がない。
誰のためでもない。凛は、自分のためにお菓子を作った。
泣いて、足掻いて、震えながら、過去に打ち勝とうとしていた。「普通の女の子」になるために。
「俺と寝たがっていたのはどうして?」
「好きな人と、愛し合いたかったの」
「好きな人……」
凛は頷いた。
「普通の女の子として、貴方のことが好き」
自身の身体にシーツを巻きつけると、凛はベッドから降りた。
フィアスの隣を通り越し、クローゼットへ向かう。
背後で、着替えをする布ずれの音が聞こえてくる。
フィアスは額に手を当てたまま、その気配がなくなるのを待った。その間に考えたことは、今しがた聞いた内容の、反復に過ぎなかった。
生殖実験、観察、出来損ないの……。
彼女は裾の長い白いワンピースを身につけて戻ってきた。ベッドの上ではなく、黙りこんだフィアスの隣に腰掛ける。
「ごめんなさい」と凛は言った。
「こんな話を、するつもりはなかったのに」
冷たい手で、髪を撫でられる。
フィアスは顔を上げて、隣の凛を見下ろした。この手が、腕が、顔が、身体のすべてが――誰かに弄ばれていたことが、腹立たしかった。標的の顔が見えないことが、余計にフィアスを苛立たせた。
しかし、怒りはすぐに虚無に変わった。
過去を抹消することはできない。ネオをはじめ、生殖実験に関わった科学者たちを全員殺しても、生殖実験の事実が変わるわけではない。
それならば、何をすればいいのか。彼女のために、出来ることは?
いくら思案をめぐらせても、何も思い浮かばない。
発する言葉の一語さえ、思いつかないのだ。
「あたしのこと、嫌いになったでしょう」
凛の口調は穏やかだった。
「嫌われてもしょうがないことを、たくさんしてきたんだから」
「嫌うわけ、ない」
「ほんとう?」
「君を、嫌いになんかならない」
「ありがとう」
凛は微笑む。その瞳から、新たな涙が溢れ出る。
「本当は……好きって言って欲しかった。あたしも、好きが愛に代わるくらい、貴方のことを愛したかった。これって、ワガママなこと? 誰かを好きになる気持ちは、我慢しなくちゃいけないものなの?」
「君は自由だ。もう研究対象じゃない」
「貴方だって自由でしょう? あたしたち、ケージに入れられた動物じゃないのよ」
俯いた凛の顔から涙が落ちる。床に転々と水跡をつくる。その小さな溜まりの上から、さらに水が降ってくる。不恰好な水の円が大きくなる。
床についた自分の手にも、涙が落ちてきた。手首を滴り、指先へ流れてゆく。
「そうだな」
フィアスは言った。
「動物は泣かない」
凛の長い睫毛に光る水滴。美しいと思った彼女がそこにいる。
白昼夢でも、夢でもない。
向き合おうとしてすれ違い、触れようとして触れられなかった、彼女がいる。
動物は泣かない。哀しみにくれるのは――その感情を表現できるのは、人間だけだ。
やわらかな肩先に手を伸ばす。
華奢な身体を抱き寄せる。
凛の身体は震えなかった。
フィアスは身をかがめ――赤い唇に口づけた。
ふわりとにおいが立ちのぼる。
花に似た、甘い香り。
自分とは違う、凛のにおい。凛の体温。凛の唇の味。
宙を探っていた手が、居場所を見つけたように自分の背に触れる。
キスに応じる凛の身体から、甘いにおいが強くなる。
そのにおいは狂わしいほど自分を惹きつけ、彼女の身体に縛りつけようとする。
凛のすべてが欲しい。なぜなら、自分の中にないものすべてを持っているから。
凛も求めているのだろうか。自身の中に見出せないものすべてを。
決して混ざってはいけないもの同士の、抗えない互いの近さを。
何度も口づけをかわしながら、そんなことを考え続けた。
……これが今、定められた運命を裏切って、出来ることの精一杯だ。
未来を夢見て、未知への期待を植えつけること。凛にも、そして自分にも。
それが良いことなのか、悪いことなのか、実を結ぶのか、虚無と散るのか、分からない。
だが、この気持ちに嘘はない。
「好きだ」
やがて抱擁を解くと、フィアスは言った。
「普通の女の子として、リンのことが好きだ」