「これで全部かな」
両手に抱えた材料を、キッチンテーブルの上に置く。
どさっと重い音がしたのは、小麦粉の大袋が混じっていたからだ。それ以外はパッケージ品が多い。ベーキングパウダー、ゼラチン、シュガーパウダー。国内外問わず、様々な種類のチョコレートも数枚ある。その他、ケーキやクッキーの飾り付けに使う、デコレーション素材など。新品同様の調理器具も揃っている。
女性的なものを好む時藤小百合は、お菓子作りの材料も大量に買い込んでいた。衣装部屋にあった衣類と同じで、すべてが手付かずのまま放置されている。
直近にこの家へ帰省したと見えて、材料の賞味期限は一年先まで刻印されているものがほとんどだ。
これらもコレクションの一部だろう。買い揃えるだけ買い揃えて、手をつけた形跡はない。
眺めるだけで満足なのだろうか。
おとぎ話の人魚姫が、海の向こう側の世界を夢見るように?
「ここまで来ると、執念を感じるなぁ」テーブルを見回しながら、真一は苦笑する。
寝室の写真で見た小百合は、検死官らしく白衣を
彼女が病的に女性を象徴するものを買い漁る性格だと、あの写真からはまったく想像ができない。
貧乏人は金持ちを夢見て、不美人は美人を夢見る。対極に憧れるのが人間の性なら、彼女はどれほど男っぽい性格の持ち主なのだろうか。
フィアスに聞いてみたい気もしたが、彼は自身の過去について尋ねられるのを嫌う。それに現在は客間のベッドで仮眠中だ。
異変を感じたらすぐに目が覚めるらしいが、隣室の他愛ない雑談は異変のうちにも入らないだろう。
「あたし、この人の気持ちが少しだけ分かる気がするな」
「小百合さんの?」
「うん。なんとなくだけど」
材料を手に取りながら凛はつぶやく。片手で携帯電話を操って、お菓子のレシピを調べあげる。
「真一くん、これ作れる?」
ディスプレイに映し出されたのは、パティシエが作ったであろう高級ケーキ。
そんなの無理だよ、と真一は笑う。
「お菓子が作りたいって言い出したのは凛じゃんか。俺はただのアシスタント」
「もちろん、作るのはあたしよ。ただ、普通の女の子が作れるレベルが分からなくて」
「普通の女の子? お菓子を作らない女の子の方が多いと思うけど」
「学校では、お菓子作りを習うんじゃないの?」
「えっ? そんな話、聞いたことないよ」
「そうなの? 真一くんが知らないだけじゃなくて?」
「違うと思うけどなぁ……俺の友達の茜って言う女も、お好み焼きしか作れないし」
「それが本当なら、家庭科の授業では一体何を習うのかしら?」
うーん、と凛は考え込む。
彼女は学校に行ったことがない。
義務教育を受ける前に
中学を出てすぐに「何でも屋」という稼業に就いた真一以上に、同い年の子供との関わりが薄い世界にいた。
組織にも教師役の人間はいたようだ。高校レベルの学力は身についているんじゃないかと
ただ、学校という場所で、授業を受けたことがないだけで。
まあいいわ、とつぶやくと、気を取り直すように検索したレシピを開き、材料を選び始める。
凛が料理を始めた理由を、真一は知らなかった。それも不慣れなお菓子作りだなんて、どういう風の吹き回しだろうか。
「ひょっとして、フィアスや俺に食わせようとしてる?」
フィアスから、凛の料理の腕前を聞いていた真一は、恐る恐る尋ねる。
が、別段そういった意図はないらしい。
ただ、お菓子が作りたくなっただけ。
凛の答えは、そっけないものだった。
甘いものが食べたくて自分で作っている……そんな理由でもないだろう。家庭科の授業の話から派生して、自分が中学生のときに行った数々の
彼女が行動を起こすとき、いつも明確な理由がある。
衝動的だが、無思考ではない。
「さ、砂糖こっち! それ塩!」
「もう入れちゃったわよ。ほら」
「早くスプーンですくって!」
「一応全部取ったけど……大丈夫かしら」
「う、うん。砂糖をちょっと多めに入れれば……」
「ちゃんと甘くなる?」
「たぶん……」
引きつった笑顔で、真一は頬を掻く。
……無思考ではないが、衝動的だ。
雲行きの怪しさを感じないではなかったが、凛は生地を伸ばし始める。
小百合の買い込んだクッキー型は、使い切れないほど種類があった。凛は一つ一つを手にとって、形をチェックする。
すべてを違った形にしたいらしい。気に入った型を選別していく。
ささやかな選択にかかわらず、彼女の顔は真剣そのもの。小さな子供を見ている時の可笑しさを感じて、真一はくすりと笑ってしまう。
凛が、不思議そうに振り返ったので、慌てて話題を切り出した。
「さっき凛は、小百合さんの気持ちが分かるって言ってなかった?」
「うん。少しだけ」
「俺、小百合さんは、かなり男っぽい人だと思うんだけど、どう思う?」
「そうねぇ、性格までは分からないけれど……普通の女性とは、かなり違う気がするわ」
「ま、検死官だしな。死体相手の商売なんて、男の俺でも嫌だぜ」
束の間、凛は宙を見上げて、考えをまとめていた。
「あたし、思うんだけどさ……」
そして、一つ一つの単語を丁寧に扱うように、ゆっくりと言葉を発した。
「時藤小百合は、普通の女の子とは、ぜんぜん違う人生を歩んできたんじゃないかしら。検死官、どうこうではなくて。むしろ、普通と呼ばれるものの中から離れていないと、生きられない人じゃないかしら。だから、こんなに女性らしいファッションや、メイクや、お料理道具にこだわるのよ。女の子らしさって、強要されるとムカつくけど、自分の中に見つけられないと、不安になるものだから」
話している間、凛は花や動物を象った、可愛らしいクッキー型を手にしていた。様々な角度に弄んでいると、光の反射で銀色のフレームがきらきらと光る。
普通の女の子、と言葉に出さず真一はつぶやく。
普通の女の子になりたくて、凛も料理をしているのか? と反射的に会話を繋ごうとして口をつぐんだ。
そんなことは、聞かずとも知れたことだ。
真一は目下の凛を見る。色白の華奢な身体に、きれいな黒髪。顔立ちは整っていて、些細な仕草に色気がある。さすが、元〈組織の女〉。恋愛感情が湧かなくても、ドキドキするくらい魅力的だ。
凛は、そのままでも充分、女の子らしいと思うけどな……。これも心の中で思うに留めておく。今の状態では、心のこもった感想や励ましは、軽はずみな発言になってしまう気がした。
真一は、車の形を模した型と、恐竜の形を模した型を取り上げた。
「入れるとしたら、どっちがいい?」
「どっちも入れたくない。可愛くないもの」
「いいじゃん、俺との競作ってことで、どっちか作ってくれよ」
「それなら、〝真〟と〝一〟って形のクッキーを焼いてあげる」
「そ、そう来たか。すげぇセンスだな……さすが凛」
「ちょっと! それ、褒めてないわよね?」
凛はわざと唇を