「おっ、お前……! 何してるんだ!」
震えながら発した真一の声に、赤い目を細めてフォックスは笑った。画面越しに唇が開く。何かを喋っているようだ。
 フィオリーナが耳についたインカムに手をあてる。⁠こちらの音声が相手に伝わるように、⁠相手からの音声⁠もインカムに伝わっているらしい。⁠フォックスの声が聞こえたとしても、日本語以外の言葉が分からない真一には意味をなさない。⁠フィオリーナの隣で、食い入るように画面を見つめる。
 ⁠殺し屋の太い腕⁠の先にフィアスがいる。強い力で壁に押し付けられ、ぴくりとも動かない。うつむいた顔を金の前髪が覆っているので、表情も掴めない。
 まさか……、⁠既にもう……。
 いや、アイツに限ってそんなことあるわけない。
「おい! フィアス、しっかりしろ! そんなところで寝てんじゃねぇ!」
 モニターに向かって真一は怒鳴った。その叫びがうるさかったのか、フォックスは苛立たしげに頭を振る。空を睨んで、不満を口にしているようだ……刹那、フィアスが動いた。
 腰から素早くナイフを抜き、水平⁠方向へ刃先を滑ら⁠せる。首筋めがけて⁠切りつけたはずのナイフは、コンマ数秒の差でフォックスの腕に⁠阻まれる。フィアスはナイフの柄に両手を添えると、刺さった腕へと力任せに押し込んだ。
 鋭い刃が、⁠フォックスの肉を割⁠き、⁠骨に食い込む。勢いよく吹き出た鮮血が、フィアスの顔半分を真っ赤に染めた。
画面越しでも、その凄惨せいさんさは言葉を失うほどだった。
 手首を切断されないまでも、主流の血管を切った。致命的なダメージのはずだ。
 ナイフから手を離し、素早く次の行動に移る。とどめを刺すために、ヒップホルスターから銃を抜⁠いた。
「いけませんっ!」
フィオリーナが叫ぶと同時に、獣の手が銃身を打ち払った。弾き飛ばされたグロックが、画面外へ消える。フォックスは胸ぐらを掴⁠むと、⁠自身が破壊したコンクリート壁へ向けて、フィアスの身体を放り投げた。
フィアスは一階の観劇場へ落下した。
「フィアス!」
フィオリーナの悲鳴が部屋中に響き渡る。真一⁠は瞬時にフィアスの携帯へ電話を掛ける。応答があることを願いながら。
その間、頭の中では今しがた起こった光景を、信じられない気持ちで反芻していた。
人間が、人間を放り投げた。⁠それも片手で。
 漫画や映画で目にしたシーンが、現実に起こり得るなんて信じられない。しかも敵は負傷しているのだ。手首を半分、裂かれるほどの。健康な人間でさえ、あんな馬鹿力を出せるはずがない。
 ところが、衛星が映し出すフォックスに瀕死の症状は見られなかった。それどころか⁠余裕綽々と言わんばかりに、ナイフの刺さっている腕を軽く回している。まるで野球選手がバッターボックスに立つ前に、肩慣らしをするように。
 ゆっくりとその場に腰を下ろすと、刺さったナイフを引き抜きにかかった。
 モニターを見つめていたフィオリーナは、独り言のように呟いた。
「再生している……」
椅子に腰掛け、コンピューターを操作する。衛星カメラが角度を変え、フォックスの手首にフォーカスした。
 彼が苦戦していたのは、骨に刺さったナイフが抜けないからではない。ナイフを包むように皮膚が覆い、取り出せなくなっているのだ。柄を待ち、内側から皮膚を裂いて、引っ張り出そうとしている。
 真一は思わず目を背ける。苦い味のする液体が、胃の腑からせり上がってきた。
こみ上げる吐き気をなんとか抑え、真一は聞いた。
「アイツの身体は、どうなっているんだ?」
フィオリーナは答えない。夢中で画面に見入っている。
 呼び出し音が切れた。意図的に着信終了のボタンが押されたのだ。直感が真一を揺さぶり、⁠光がついたままの、携帯画面を凝視する。
 すぐさま一件のメッセージが表示された。
――お前の声はうるさい。
「フィアスだ」
そのつぶやきを聞き取って、フィオリーナが近くへ来た。
二人して覗き込んだ画面に、再びメッセージが受信される。
⁠――通話は、まずい。
――フォックスは聴覚が発達している。
――居場所がバレたのもそのせいだ。
「わたくしたちの会話を聞いていたというの?」
フィオリーナが、口元に手をあてて独りごちる。
「⁠わざわざ衛星に映しやすい立地を選んだの⁠は、⁠⁠わたくしたちの会話から居場所を逆探知するため……?」
これまでの経緯を知らない真一は、再び画面に目を向ける。今度はメッセージが三件、立て続けに流れてきた。
――罠を仕掛ける。
――合図をしたら、
――通信機に話せ。
了解、と返事を打つ。
 焦燥しょうそうに駆られながら続くメッセージを待ったが、応答はなかった。衛星カメラに目を向けると、フォックスは引き抜いたナイフを捨て、手首の調子を測っているところだった。
 傷はケロイド状の痕が薄く残っているだけで、完治している。
 コイツ、不死身かよ……。
 先程のゾンビ染みた男といい、非現実的なことが多過ぎる。真一は背筋に寒気が走るのを感じた。
 ⁠そのとき、大柄な身体をかがめて、シドがコンピューター室に入ってきた。上空の映像をちらと目にした後、フィオリーナに小さく耳打ちする。
 先の一戦を上司に伝えにきたようだ。
 彼女は驚いた様子で、シドを見上げた。
 それから映像モニターを一瞥すると、シドに代わって廊下に出た。


「隠れたって無駄だぜ。俺の耳にはお前の鼓動が聞こえてる。恐怖か興奮か、うるさいくらい高鳴っているよな」
フォックスも階下へと降りてきたようだ。哄笑こうしょうが漏斗型のホールにこだまし、⁠何重にも重なって響いている。人並みの聴覚でもその声は耳障りだ。
 壁の陰に腰を落とし、フィアスは息を潜める。⁠観劇に使われるはずだった漏斗型のホールには、客席の台座に使う予定だったのか、コンクリート壁がまばらに立ち並んでいた。
 その一つに身をかがめて、好機を伺う。
 先ほど⁠から、冷や汗が止まらない。⁠これは、生理的な現象だ。着地の衝撃で右手が使い物にならなくな⁠った。赤紫色に腫れ上がった数本の指は、痛みを超えて⁠無感覚だが、全身からにじむ汗は身体の異常を訴え続けている。
 フォックスとはいくつかの壁を隔てて、数十メートルの距離がある。⁠靴音さえも聞こえない距離だ。心臓の鼓動を聞き取っているという彼の言葉は、ハッタリのように聞こえるものの、真偽の程は定かではない。
 なぜならば、似たような芸当が自分にも出来るからだ。
 フィアスは目を閉じる。視界を消して鋭くなった五感の一つ――嗅覚が、手入れしたばかりの銃の油のにおいを嗅ぎ取る。上階の一戦交えた場所から武器は回収されていない。
 ……取り戻さなければ。
――通信機に応答しろ。
 真一宛にメッセージを打つ。直後、何枚も隔てた壁の向こうで、フォックスが動いた。彼の身体に馴染んだ香水のにおいが、素早く別の地点へと移動したのだ。仕掛けた罠――真一が喋っている通信機の方へ。
 フィアスは音を立てずホールを抜けると、上階へ続くエントランスへ走った。自分の得物を取り戻すために。
 背後に気配を感じなければ、滞りなくその作戦は成功するはずだった。
 早い……!
 殺気を感じ、咄嗟に身を捻った。拳が肩先を掠め、コンクリート壁を殴りつける。壁の表面を細い亀裂がほとばしり、ぼろぼろと破片が⁠剥がれた。
「あんな小細工、通用するかっての!」
続く二発目のパンチを、身をかがめて受け流す。
「どうして赤い目にならない?」
三発目、後方へ飛び下がらなければ、頭の骨を砕かれているところだ。
「俺を倒したくないのかよ!」
四発目、ストレート。一発目と同じように身をひねってかわす。
「つまんねぇんだよ!!」
突如、パンチよりも素早く手が伸び、胸ぐらを掴まれた。階下へ放り投げられたときと同じく、人間離れした力技で、エントランスとは逆方向へ飛ばされる。最早、右腕は盾にならない。防壁へ全身を強かに打ち、束の間、呼吸の仕方を忘れた。
「ふっ! ぐうぅっ……」
なんとか上体を起こし、壁に身体を預ける。⁠立ち上がろうにも、身体が言うことを聞かない。⁠足の骨が折れているのか、神経系が麻痺したか、痛みの根源がどこにあるのかさえ、辿れない。
 視界が二重にも三重にもブレる中を、赤い目の男が歩いてくる……。


「おい、後天遺伝子はどうした?」
フィアスの視線に合わせて身をかがめると、フォックスは金の髪を掴んだ。まじまじと、その顔を見つめる。苦痛に歪む両眼は、灰青色から変化の兆しが見えない。
 圧倒的な力で組み伏せられ、肉体的に疲弊してもなお、その瞳は理性的な落ち着きを保っている。
 獣を見下す、人智の目。
「俺が戦いたいのはお前じゃない!」
 苛立ちまぎれにフォックスは、フィアスの頭を壁に打ちつけた。
 壁に背を預けたまま、獲物は力を失った。金の前髪に隠れた額から、太い血の川が頬に向かって流れ出す。
 フォックスの耳に、浅い呼吸音と静かな鼓動が届いた。
 どちらとも、かなり弱い。
 ……これが限界か。
フォックスは溜息を吐くと、手首に仕込んだ武器を取り出す。刃渡りの長い、戦闘用ナイフだ。刃先を指でなぞると、皮膚が切れ、瞬く間に塞がった。
「穏やかに逝けると思うな」
「……」
「まずは女からだ」
「……」
「そこで見てろ。猫みたいに可愛い売女が、にゃーにゃーのたうちまわる様をよ」
「……」
 そのとき、声が届いた。
 ⁠細い呼吸に乗せるように、低くかすれた声だ。
 常人なら聞き逃しまう囁きを、フォックスは聞き逃さなかった。
 力なく壁にもたれた瀕死状態の男の口から、⁠再び同じ言葉が発せられた。
〝生き延びることに興味はない〟
フォックスはまじまじとフィアスを見る。顔面を覆い尽くすほどの流血――その血に塞がれていた目が見開き、ぎょろりと動いてフォックスを捉えた。
 目の眩む衝撃が左頬に飛んできた。球を弾くように、数メートル先まで飛ばされる。フォックスは壁を支えにして立ち上がると、血とともに折れた歯の欠けらを吐き出す。
 顔の奥で無数の細胞がうごめいている。早くも殴打された患部が、じわじわと治癒されていくのが分かる。
 
 これが後天遺伝子。
 破壊と再生を繰り返す、禁断の力。

 痛みとともに湧き上がる感情は喜びだ。
 切れた唇から滴る血をひと舐めすると、フォックスはニヤリと笑う。
 数メートル先で、死の淵を彷徨っていた兵士が何事もなかったかのように立ち上がっていた。折れていたはずの足で軽く地面を蹴り、腫れの引いた右手で目元を覆っていた血を拭う。
 その手が顔を離れると、煙った灰青色とは正反対の、毒々しい赤い目が現れた。
「生き延びることに興味はない……しかし、ここで死ぬわけに⁠もいかない⁠」
獣の歯噛みに似た顔で、フィアスは⁠笑った。