フォックス


 丸椅子の上で深く舟を漕いだせいで、真一は派手に体勢を崩した。リノリウムの床に倒れ込む。ぶつけた尻の痛みよりも眠気の方が勝っているようで、床にあぐらをかいたまま、ふわぁと大きな欠伸をする……その様子をベッドの上からぼんやりとフィアスは見ていた。
 立ち上がるかと思いきや、真一は中々夢から目覚めない。半開きになった口の端から涎が長く糸を引いている。
 溜息をつくと、フィアスは上体を起こした。いやに肌寒い。シーツをめくると、裸の半身に左肩から右の腹部へ、たすきを掛けるように太い包帯が巻いてある。両腕に点滴。透明な液体が長い管を通ってベッドの脇の鉄製のスタンドへ続いている。
 体中に違和感があるので、治療はこれだけでないようだ。左指に指輪のようにはめ込まれた青い端末は、血圧を測るためのものだろうか。
 額に触れるといつもより熱が高い。洋服は下着以外、何も身に付けていなかった。煙草も、拳銃も持っていない。なるほど、とフィアスは思う。この世で一二を争うほど嫌いな場所に、この世で一二を争うほど嫌いな格好で収容されているらしい。
 つまり、本当の脱出劇はここからだ。
 真一の健やかな寝顔を横目に、フィアスは全身に施された治療を足から順に外してゆく。頬のガーゼを取り払うと、強い薬品のにおいが鼻をついた。地獄だな、とつぶやくも掠れた声しか出てこない。
 ベッドの上にあぐらをかき、腕の注射針に悪戦苦闘すること五分、隣から「うわっ」と驚きの声があがる。眠りから覚めた真一が、目を丸くしてフィアスを見ていた。口をあんぐり開けたまま、信じられないと言った表情。
「マイチ」
 名前を呼ぶと、見開いた目にみるみる涙が溜まって、黒目がちの瞳が風の吹く水面のように大きく揺らいだ。真一は腕につけたリストバンドでごしごしと顔をこする。その間、フィアスは黙ったまま頭に巻かれた包帯をなぞっていた。やりにくいな、と思いながら。
「……心配掛けて、すまなかったな」
 本当だよ。しゃがれ声で真一は言った。
「五日間、あんたは意識不明のまま生死の境をさまよっていたんだ。出血の量がひどくて、病院に搬送されたときはショックを起こしかけていた。今度こそ駄目かと思ったよ」
「自分でも生きているのが不思議なくらいだ……なるほど、あれから五日も経ってしまったわけか」
左手の関節を折り曲げると、小枝を踏んづけたような音が鳴る。相当、身体がナマっている。この五日間で、戦いの感覚まで鈍っていなければ良いのだが……眉間に皺を寄せて考えこむフィアスの隣で、真一はぐずっと鼻をすする。
「とにかくあんたが生きていてくれて良かった。すぐに龍頭凛を連れてくるよ。フィオリーナも話しを聞きたがっているし」
「リンに……フィオリーナ?」
真一は入口のドアの方をちらりと振り返る。
「二人とも、ちょっと席を外してるけど……」
「日本にいるのかっ?」
声を荒げた瞬間、左肩に鋭い痛みが走り、フィアスは眉をしかめる。フィオリーナ。その名を思い出すだけでも恐ろしい。
 ふと見ると、心臓の鼓動に反応して血圧計の数値があがっている。まごまごしていられない。
 フィアスは本来の仕事、左腕の点滴の除去を再開する。
 ぶちっ! 悲惨な音を立てて針を弾き抜くと、血が一筋、腕を伝って肘に赤い雫を作る。蒼白な顔の真一を尻目に、頭と胴体に巻かれた包帯以外すべての針と補強テープを外し終わると、フィアスはベッドから飛び降りた。立ち上がると同時に鈍い痛みが側頭をつつく。片手で頭を押さえながら、窓ぎわのキャビネットを開く。幸いにもスーツが一式掛かっている。
「ちょっ、まずいよ、あんた怪我人だろ! 医者が来るまで安静にしてろよ!」
 真一の言い分を無視して、手早くワイシャツとスラックスを身につけた。ワイシャツからは薄い洗濯洗剤の匂いがした。誰かが自分のホテルに戻って、着替えを用意してくれたらしい。
 上着を羽織り、見慣れた自分の姿に戻ると、頭を抱えながら病室のドアに手をかける。そのまま外へ出ていこうとする肩先を真一は掴んで、それがちょうど患部に位置する場所だったのでフィアスはうめき声をあげた。
「あっ、ごめん!」真一が手を離した隙に、よろめきながら廊下へ出た。
 長い廊下は、左右に取り付けられた窓から一定の間隔で日の光が差し込んでいた。真一は半ばあきらめた様子で、手を頭の後ろで組んだまま、フィアスのあとをついてゆく。
 壁に手をついてバランスを保っているが、フィアスの歩調は平生と変らなかった。
 三発も銃弾を受けていながら、すごい回復力だ……それでも。
 今、背後から襲いかかったら、勝てるだろうか? 真一は考える。試してみる価値はあるだろうか?
 ぐっと拳を固めたのを見透かしたように、フィアスは肩越しに鋭い目で真一を睨みつけた。殺気を嗅ぎつかれたのでは仕方ない。
 たははっ、と笑って真一はやりすごす。


 歩き始めてしばらくしたころ、ふいにフィアスがつぶやいた。
「眠っている間、夢を見ていた……とても尊い夢だった」
「どんな夢?」
「それが、まったく覚えていない。片鱗も思い出せない」
「それなのに尊い夢なのか?」
 ああ、と低い声で答えたきりフィアスは口を閉じてしまう。考え事をしているというより、心が夢の中へ舞い戻ってしまったかのように秘密めいた沈黙を守る。
 真一は頭をかく。
 なあ、と声をかけると、数秒遅れてフィアスが反応する。
「なんだ?」
「どこへ向かっているのか、目的地くらい教えてくれてもいいんじゃないの?」
「なんだ、そんなことか」
虚空を見上げながらフィアスは言う。
「匂いの方へ進んでいる」
「匂い? 食いもんの匂いでもすんのか?」
真一はくんくんと鼻をひくつかせたが、辺りは病院独特の薬品臭が漂うばかりだ。
「食いもんの匂いなんてしないじゃないか」
「違う。食べ物じゃない」
「じゃあ、何の匂いだよ?」
「……リンだ。龍頭、凛」
 廊下は行き止まり、階段に切り替わった。上階から聞き慣れた声が聞こえてくる。一段上の踊り場に、黒いワンピースをまとった凛の姿が見えた。隣には派手な服装の背高せいたかの男。燃えるような赤髪の、殺し屋シカーリオがいる。
 二人はなにやら話をしていた。深刻な話なのだろうか、思いつめた顔でうつむく凛の、胸に当てた両手が固く握りしめられ白く変色している。浮かない顔の凛と同じく、フォックスの眼差しも真摯だ。両手が、慰めるようにゆっくりと彼女の肩を抱く……直前。
「リン」
フィアスが声をかけた。
 驚いたように肩をふるわせると、凛は階下を見下ろした。高窓から降り注ぐ午後の陽を背後に、大きな目がさらに大きく見開かれ、数メートル先のフィアスを捉える。
 と同時にフォックスの腕をすりぬけ、飛び降りるように階段を駆け下りた。
 俊敏な猫の仕草でフィアスの胸に飛びつくと、泣きたいような安堵に歪んだ顔で、灰青色の瞳を仰ぎ見る。
 凛はフィアスの頬に手をあてた。幻覚ではないことを、確かめるように。
 その手をフィアスは握った。
「一人にさせて悪かった」
「悪かった?」
大きな目を鋭く細めて、凛は言葉を反芻する。悪かった、ですって?
「ねぇ、あたしがどれだけ心配してたか知ってる? 何の説明もなしにあんたがどこかへ消えて、挙句の果てに<サイコ・ブレイン>に拉致されていた間、ずっと生きた心地がしなかったんだからね。そんなあたしの気持ちを〝悪かった〟だけで収拾つけるつもり?」
 フィアスから身体を退けると凛は腕を組む。仲裁に入ろうとした真一を、一睨みで撃退すると、再びフィアスを睨みつける。 「あたし、かなり怒っているのよ」と低い声でつぶやいた。
「本気で怒るとこんな風に静かになるの。さながら粉塵を巻き散らかした倉庫ってとこかしら。爆発するかしないかは、あんたの銃口にかかってるわよ」
凛の黒目がじっとフィアスを見据える。咄嗟にフィアスは目をそらした。床を一瞥しただけで、すぐにまた凛の目を見つめる。小さな声で、ごめん、とつぶやく。
「こんなに心配されているとは思わなかったんだ。今までのガードの仕事は、護衛対象を敵の攻撃から遠ざけるだけで良かった。だから、こんなに……」
微かな躊躇いを覚えて、フィアスは口を閉じる。反射的に上着のポケットをまさぐったが、煙草はない。
 持て余した手は少しの間、握りこぶしを開いたり閉じたりしていたが、やがて凛の手を掴んだ。
「本当に……ごめん」