原初の記憶


 ――Verzeihung. 許してくれ。許してくれ。
 ――俺はお前の運命をめちゃめちゃにしてしまった。何の罪もないお前を巻き込んでしまった。
 ――もう逃げ道は残されていないんだ、運命に賭けるしか……。
 ――お前だけは、どうか生き延びてくれ。
 ――ラインハルト、俺の息子よ。
 ――愛してる。


 横浜にあるホテルの一室。二人の男がいる。狭く小汚い部屋に窓から午後の光が差しこみ、金粉のような粉塵が舞い上がる。
 紫煙漂う室内、ふかしているのは日本人の男。男の恰好は小汚い。膝の破けたジーンズに黒のシャツ。他に何も持っていない。こんなことになるなら着替えを持ってくるんだったぜ。着替えと歯ブラシと、それから観光用のカメラも必要だったな……なんて冗談を一人で言って、その男――龍頭正宗はニヤリと笑う。
 正宗とは対照的に、窓ぎわに立った男の服は仕立てが良い。シャツにズボンというラフな出立ちだが、どちらの生地にも変わった意匠が凝らされている。耳元や首筋には世界的に名の知れたブランドロゴ。流行に関心のある者が一目すれば気付くはずだ。地位の輝きを見せつけるため、半ば強引に金のにおいを漂わせていることに。
 この男は殺し屋シカーリオだ。金の羽振りにかけては政治家や資産家にも引けをとらない。
 イタリアを拠点としているが、世界各国依頼があれば何でも殺す。以前はマフィアの下請けばかりの薄汚い野良仕事をこなすばかりだったが、BLOOD THIRSTYに所属してからは、大物の仕事が舞い込んでくるようになった。
 ターゲットとなるのは世間を賑わす大物政治家やマフィアの幹部。標的に狙いを定め、引き金を引いた瞬間、世界が変動する。自分の手で世界が変わる。その後何カ月も各国の新聞紙が、ターゲットの訃報をばらまく。それは仕事の成果を礼賛する表彰状だ。
 仕事の依頼状はBLOOD THIRSTYの№1であるフィオリーナの了解を得たものだけが送られてくる。大抵は悪い噂の立つ著名人を標的にしたものばかりだ。強姦罪をなかったことにした政治家や、古参の縄張りを荒しまくった新興マフィア、市街に爆弾を放り投げたテロリスト、エトセトラ、エトセトラ……。
 皮肉なもんだ、この俺が正義漢ぶる日がくるなんて。悪を滅して、皆にこにこだ。ファルコーネにボルセリーノか。笑っちまう。
 功妙に入り組んだルートを通ってくる依頼のおかげで、無駄に他者の恨みを買うこともない。その分、敵に追われるスリル、報復のにおいを嗅ぎつけて一足先に報復を返すスリルも減った。
 フィオリーナに飼いならされて、八年目。富も名声(と言っても新聞紙が報じる訃報欄だが)も十分に得た。機械的にこなす仕事には飽き飽きだ。もっと自分の力を試せるような、危険な仕事はないものか。フィオリーナの了承も得られる、大それた英雄活動はないものか。
 そんなことを考えていた矢先、風の噂で〈サイコ・ブレイン〉のことを聞きつけた。№1のフィオリーナが№2のアイツと共に、日本に蔓延っている強大なファミリーを潰そうというのだ。面白い。面白いぞ。〈サイコ・ブレイン〉こそ、自分の力を試すのにふさわしい。
 ここは一つ、俺がサルヴァトーレ救世主になってやろうじゃないか。感謝しろよ。


 ――フォックス
 フィオリーナに電話をかけると、彼女は男の名前を呼んだ。フォックス。それが彼――BLOOD THIRSTY№3に与えられた名。
 麗しき声にその名を呼ばれ、フォックスはニヤリと笑う。
 ――横浜に、戻ったのですね。
 早くも逆探知機能で居場所が突き止められている。相変わらずできた上司だ、とフォックスは思う。頭が良くて美しくスタイルも良い。理想の上司。理想の女。フィオリーナ嬢。


 今から五時間前。ベーゼを発つ直前に、フィオリーナとは連絡を取っていた。
 フィオリーナは早速日本にいるわけを尋ねたが、ボロが出る前にフォックスは話題を変えることにした。
「№2が捕まった」
 これは地獄耳の上司にもセンセーショナルな話題だったようだ。長年仕えてきた上司の、始めて息を呑む気配をフォックスは受話器先に感じた。同時にフィオリーナに勝るとも劣らない程のショックをフォックス自身も胸に受けた。自分の忠誠心を裏切られたような感じがしたのだ。
 鋼鉄の心を持つ貴女が、どうして心乱される。№2は俺と同じ、使い捨ての駒じゃないか。仕事ができなくなった瞬間、露と消える運命。そんな人間にいちいち感情移入していては身がもたない。
 それなのに、どうして貴女はアイツに限って人間的な感情を露わにする。
 もしかしてフィオリーナは№2に想いを抱いているのか? 疑惑が脳裏をよぎったが、理性と知性が行動の大部分を占めている上司に、その推測は荒唐無稽な感じがする。けれども〈サイコ・ブレイン〉の特別任務といい、№2に対するフィオリーナの一挙一動といい、アイツの方が自分よりも多く寵愛を賜っていることは確かだ。
 くそっ……。フォックスは内心で毒づく。
 煮えたぎる嫉妬心をおくびにも出さず、フォックスは穏やかな口調で続ける。
「心配するなよ、お嬢。俺が来たからには、№2を助けるついでに〈サイコ・ブレイン〉とかいう組織もブッ潰してやるよ。何て言ったって、俺は救世主だからな」
電話先でしばらく間があった。
 フィオリーナがあらゆる知識の詰まったその頭をフル稼働させているのだろう。フィオリーナが口を開くと、ひどく慎重に、言葉を選ぶようにしてフォックスに告げた。
 ――横浜に戻ってから、また連絡をしてください。作戦を練りましょう。


 フォックスは右手に携帯を持ちかえると、窓を開けた。背の高いビル群を押しのけるように、眼前には一際大きなビルが聳えていた。壁はどれもメタリックな色のガラスでコーティングされており、太陽の光を所構わず反射させている。
 先程、携帯のマップ機能で調べたところ、あのビルは「シーサイドタワー」というらしい。周囲には外資関係の会社だという認識があるようだ。もちろん、実際に何をしている場所なのか、と問われたら現地の警官も口を閉ざしてしまうに違いない。創設から一年も経っていないという。しかし、三年の内にまた取り壊されることになるだろう。そういう風に、何十回も移転を繰り返してきたのだと思う。アジトとは、そう何年も同じ場所に神輿を据えないものだ。
 そう。あれが〈サイコ・ブレイン〉のアジト。フォックスにそれが分かるのは、ベーゼで見かけた大型バンに発信器を仕掛けておいたからだ。ただならぬあの子供が№2と争っている隙に、フォックスは子供のものらしいバンに追跡の仕掛けを施しておいたのだった。敵側が気付くだろうと予想はしていた。いくら功妙に隠しておいても、あの子供に見抜けないわけがない。そして実際に見抜かれた。それでも子供はされるがままにしていた。つまりこれはヤツからの無言のメッセージなのだ。会見の準備はできている。BLOOD THIRSTYの大事な戦闘要員を連れ戻しに来い、と。我らが女首領・フィオリーナに大胆な挑発をかましたわけだ。
 子供。お前が何を考えているのかは知らない。きっと色々な戦略を立てているんだろうと思う。その努力を賞して今はまだお前の手の中で泳いでいてやるぜ、とフォックスは思う。
「……それで、これから俺はどうすればいい? あんたの望みをなんなりと叶えるぜ」
電話先でフィオリーナが溜息をついた。
 ――仕方がありません。めいを与えます。
「おうよ。そうこなくっちゃな」
 ――フォックス、くれぐれも私の指示に従って動きなさい。身勝手な行動は許しませんよ。
「おっと、そいつは頂けないな。俺は血にまみれた〈サイコ・ブレイン〉の花束を貴女にプレゼントするつもりでいるんだぜ?」
 ――独善的な行動を起こした場合、私は貴方を解雇せねばならなくなります。過去に何回も申し上げたことをまたお忘れですか?
「ははは、相変わらずお嬢は厳しい。益々、惚れちまいそうだ」
 ――フォックス!
「冗談、冗談だよ。だけど№2より俺の方が使えるってことを証明できたら、花束を受け取ってくれるかい?」
電話口で少し間があいた。フォックスはフィオリーナが条件を熟考しているからだと思ったが、数分の後に受話器先から聞こえた声は、赤い薔薇の花も真っ青になるような低いうなりだった。フィオリーナの側近、シド・バレンシアの声だ。怒っているのではなく、笑っているのだ。
 誰もがそうするようにフォックスもまた電話口から三十センチほど耳を離す。この大男は日ごろ人を遠ざける訓練でもしているのだろうか。
 ――よぅ、フォックス。電話を変わらせてもらったぞ。フィオリーナはお前のイタリアン・ジョークに付き合いきれないそうだ。ここからは俺が変わりに指示を与える。俺をフィオリーナだと思って――と言うとお前は気を悪くするだろうが――言われたとおりに動くんだぞ。
 シドは大袈裟に咳ばらいをして言った。
 ――これからお前には、或る日本人に会ってもらう。喜べ、一人はお前好みの気の強い女だ。