謎の男は真っ直ぐにこちらにやってきた。足取りは軽い。頑丈なショートブーツを履いている。筋骨隆々の体をシャツの下に隠し、足には迷彩柄のズボン。目にはフレームの太いサングラスをかけている。  頭のてっぺんからつま先まで、身につけているものはすべて品が良い。どれもハイ・ブランド製品だろう。180を超える長身と鍛え上げられた肉体のせいで、正当的な男性モデルにも見える。しかし、彼はモデルほど無害な人間ではないということを、肩に担いだH&KMP5が証明している。
 男は二人の三メートル前で立ち止まると、サングラスを外して胸元にかけた。鮮やかな緑色の瞳が二人を見つめる。平生から吊り上がった瞳を細めて男は微笑の表情をつくる。余裕綽々、と表情に書いてある。小麗が厳しい目つきで男を睨みつけ、早くも格闘の構えを取った。
 男は小麗を見て早口で何か言った。異国の言葉だ。早口に聞こえたものの、きっと彼の祖国では至って標準的な速度であるに違いない。イタリア語は早口だ、と正宗は思う。
 そう、この男はイタリア語を喋っている。もっとも日本から一歩も外に出たことのない正宗に分かるのは、それが英語でも中国語でもない、鼻にかかったようなフランス語でもなく恐らくイタリア語であるだろうということだけで、話の内容までは理解できない。小麗にもイタリア語の知識はないようで戦闘の姿勢を取ったまま、ぴくりとも動かない。
 二人にイタリア語は通じないらしいと気づいた男は、言語を英語に変えて小麗に話しかける。英語なら小麗も理解できるらしい。
 いがみ合ったまま、二人は暫く英語で会話を続けていたが――どうしたことだろう――やがて小麗が真っ赤な顔で男に怒声を浴びせかけ、飛びかかった。鋭いパンチが宙を切って男の顔めがけて飛ぶ。男はいとも簡単にそれをかわす。小麗が飛び退く。タイミングを計って再び打って出る。続けざまに打ちだす小麗の小手を、男は手遊びでもしているかのように左手で難なくさばいている。小麗のとび蹴りも大きな身体を素早くよじってかわす。
 男の顔は穏やかなまま、むしろ小麗との一戦を楽しんでいる風でもある。肩に担がれた銃を使う気はないらしく、ひたすら受け身に徹している。二人の戦いに決着がつくのはまだまだ先だ。
 この隙に逃げられないものかと正宗は裏口へ続く通路を振り返った。
 途端、
「Aspetta un attimo(ちょっと待ってろ)」
何やら言われてしまった。
 仕方なく正宗は銃の安全装置を元に戻し、ジーンズのベルトに引っ掛ける。小麗と戦っていることから、赤毛の男は〈サイコ・ブレイン〉側の人間ではないらしい。もちろん味方とも限らないわけだが、今のところは自分に危害を加えることはないだろうと思う。
 一体、こいつは誰なんだ? 
 そろそろ「遊んで」いる場合ではないと自覚したのだろうか、男は小麗から一端間合いを取った。肩にかけていた銃をおろしたので小麗も正宗も身構えてしまったが、発砲する気配はない。男は短機関銃を足もとに放り出すと一気に小麗と間合いをつめた。
 小麗の両手首をがっちりと掴みあげると、顔を近づけ――熱烈なキスを施した。情熱的なキス。略奪のキス。驚愕した小麗の瞳が大きく見開き、彼女の身体をまとっていた凄まじい闘気がぷつりと途切れる。
 大胆に作ったその隙をついて、男が小麗の首筋に軽く手を当てると、小麗は急激な睡魔にでも襲われたかのようにがっくりとうなだれてしまった。倒れかかる小麗を優しく抱きとめると、男はゆっくりと壁沿いに小麗を寝かせる。
「Bounna notte , Signorina.(おやすみ、お嬢さん)」
男は小さな子どもにするように小麗の額にキスをした。


 小麗が気を失ってから一転して男の目つきは厳しくなった。床に置いた銃を拾い上げると再び両手に持ち直し、正宗を見た。正宗はジーンズの狭いポケットに指をつっこみながら男の言葉を待った。最も、自分は国際的な人間ではないので、英語もイタリア語も分からない。ただ口頭のニュアンスで男が何を伝えたいのか、分かるかも知れないと思っただけだ。
 正宗の意に反して、男は何も喋らなかった。険しい顔つきで正宗を見つめ、何かを考えているようだった。それも頭の中を超高速の電流が迸っているかのように男の息は荒く、目には焦りの色が浮かんでいた。
 ものの三十秒で、男はある結論に達したようだ。念のために、英語で何か言ってから、イタリア語でも何か言った。
「俺は日本語しか分からん」
はっきりとした口調で正宗が答えると、男は肩をすくめるような動作をした。銃を肩に担ぎあげると、左手で来い来いと正宗を呼ぶ。男が元来た道を引き返し始めたので、正宗も後に続く。絶望的な状況とは打って変わって、今ではうっすらと勝算が見え始めていた。
 ベーゼを脱出する。
 入口の自動ドアを抜けると、そこは戦場跡と化していた。十数人にも及ぶ人間の血がグラウンドを真っ赤に染め上げている。辺りには火薬と血の混ざり合った臭いが漂い、あちこちに兵士の所持していたハンドガンや、薬きょうが転がっていた。無残な光景だ。ボール代わりに弾丸で草野球でもしたのか? それでもこんな惨劇にはならないだろう。
 正宗と男は死体をまたぐように庭園を抜けた。出血の量はおびただしいが、死体はどれもきれいなものだった。額、もしくは心臓に一発。致命的に仕留められている。正宗は改めてこの男の戦闘力を思い知った。小麗の鉄拳を、赤ん坊をあやすように扱っていた男だ。普通なら目を疑うような光景も、この男の仕業というのなら納得がいく。
「ちょっと待て! ストップ!」
 前方の男は訝しげな顔で振り返ると、英語で何か言った。「何だよ?」とかそんなニュアンスだ。
 正宗は倒れた兵士の顔を一つ一つ確認しながら、見知った青年の姿を探す。どれも黒髪の日本人の顔。透き通るような金髪が倒れていれば一目で分かるものだが、いくら探してもフィアスは見つからなかった。
 ということは、フィアスはまだ生きているかも知れない。淡い期待だが、捨てるにはまだ早いのかも知れない。
 正宗の心を読み取ったように、男が言う。
「Are you looking for him? He caught by the enemy.....(アイツを探しているのか? 敵に捕まっちまったぜ……)」
「何だって?」
男は溜息をつくと、山向こうを指さす。ザット・ウェイ。向こうへ行った。
「本当か?」
男は頷いた。ついて来い、という合図をする。
 だから、黙って俺の後についてこい。
 たどり着いた場所はベーゼからかなり離れた森の中だった。どうやら車を隠してあるらしい。功妙に草木でカモフラージュされた中に新品同様の車が二台置いてある。一台は黒いBMWでもう一台も同じような黒いボルボだ。ボルボの方は男の所有物であるらしい。
 ということは、BMWがフィアスの愛車か。正宗はポケットに入っていた車のキーを取り出す。男がボルボの助手席のドアを開けようとするのを見て、正宗はキーを指先でくるくるとまわした。
「ボルボは昔から好きじゃねーんだ。こっちのBMWに乗らせてもらうぜ」
細かい意味が男に伝わるとは思えなかったが、一応の言いたい事は伝わったようだ。男は素直に頷いた。正宗はBMWの運転席に座る。車の運転なんて何年振りだろう。気が遠くなるほど遠い昔のことだが、幸いな事に身体が覚えていた。指が吸いつくようにハンドルを握りしめ、キーを回すとすんなりと車に命が吹き込まれる。どっちがアクセルで、どっちがブレーキかもちゃんと覚えている。洒落た左ハンドルとトランス・ミッションに不安が残るが、それも体感でどうにかなるだろう。目の前のボルボは既に走り出そうとしている。彼の姿が見えなくなってしまう前に、正宗は窓を開けると前方に向かって叫んだ。
「おい、行き先はどこだ? どこに向かう?」
この時ばかりは、相手側もニュアンスで正宗の言葉の意味を汲み取ったようだ。男の方も窓を開けると不自然なイントネーションで告げた。
「ヨコハマ。ヨコハマ、ダ」