「マサムネ、俺はあんたをここから連れ出す」
 フィアスの言葉に正宗は答えない。両手にはJUNK&LACKの煙草の箱を弄んでいる。その中から一本取り出すと指先でくるくると回し始めた。
「……ベーゼは〈サイコ・ブレイン〉が秘密裏に作った研究施設だ。ネオの言う、人間兵器の遺伝研究をしている。凶悪犯の収容所でも、なんでもねぇ。くだらない、子供の玩具箱なんだよ。そして俺はただの玩具なんだ」
zippoライターで煙草に火をつける。大きく煙草の煙を吸い込むと、一、二秒間をもたせてから煙を吐き出す。
「この玩具箱には何でも揃ってる。俺が自殺しないように色々な工夫を凝らしてある。自販機で缶コーヒーを買うように、手軽に女も抱ける……だけど、ここには何もないんだ。俺が求めているものなんて何一つない。それを与えられたものだけで、どうにか気を紛らわせてやってきた。この虚しさがお前に分かるか? 十七年もの間、くだらないガキの遊びに付き合わされてきた、大人の気持ちがよ?」
フィルターに届いた煙草を机の上に押しつける。白いテーブルに真っ黒な焦げ跡が二つできた。
 正宗は足を組み直すと、煙草の灰を払った。
「子供のお遊びに付き合わされるのは、もうウンザリだ」
ドアの向こう、かなり遠くで人の気配がした。扉の外が騒がしくなり始めている。まるでこの話が終わるタイミングを見計らっていたみたいに。
 ここは〈サイコ・ブレイン〉の掌中、連中がいつ飛び込んできてもおかしくはない。
 フィアスは懐からS&W M5906とサイドアームのSIG SAWER P226を取り出すと、SIGを机の上に置いた。
「確かにあんたは不幸な大人かも知れないが、そんな大人に付き合わされた子供の気持ちを考えたことがあるのか。マサムネには笹川組やアオイや娘たちや、色々なかけがえのないものがあったのかも知れないが、アヤとリンはかけがえのないものすら持たないまま、何も知らずに〈サイコ・ブレイン〉に捕まったんだぞ。それこそ、不幸だと思わないのか?」
フィアスはS&Wのマガジンを取り出して、動作を確認する。弾はマガジンに八発、薬室に一発。同じようにSIGの動作も確認した。マガジンに九発、薬室に一発。予備のシングルカアラム・マガジンが四本手元にある。マガジンを二本と、黒い拳銃を正宗の方へ滑らせた。
「俺は力づくでもあんたをここから連れ出す。〈サイコ・ブレイン〉の犠牲者にこんなことを言うのは非情かも知れないが、あんたは最低の父親だ。自分の都合で子供を巻き込んだ挙句、なんの説明もなしにさっさと舞台から退場してしまう。俺の父親と同じくらい最低なやつだ。自分を大人だというのなら、子供に対しても責任を持て。あんたには横浜に戻って、十七年前の真相をリンに伝える義務があるんだ。いつまでもこんなところで腐っていられると思ったら、大間違いだぞ」
フィアスは席を立つと、面会室の扉の傍に近づいて耳を傾けた。面会室には向い合わせに二つの入口があった。一つは受付嬢に案内された来訪者用の入口、もう一つは正宗が入って来たのであろう、ベーゼ関係者専用通路。どちらの扉の向こうも、息を潜める人間の気配がしたが、関係者用口の方が、人数が少ないように感じられた。数にしてせいぜい五、六人……敵の強さは未知数だが、このくらいならなんとか切り抜けられそうだ。
 頭の中でこれからすべきことをシュミレーションしていると、背後で正宗が銃を向けるのが分かった。
「俺は今、この銃でお前を撃ち殺すこともできるんだぜ……ここの秩序に従うんなら、俺はそうすべきだと思う」
撃鉄を落とす音が聞こえる。
フィアスは振り返らない。ただいつもより数段低い声で、静かに告げた。
「いい度胸だな、〈ドラゴン〉。試してみるか?」
二人の間にしばし、沈黙が流れる。しかし、それを破ったのは銃声ではなく、ふ、と苦笑した正宗の溜息だった。正宗が銃をおろすと同時に、フィアスの背中から漂う微かな殺気もすり潰された煙草の吸殻ようにぷつりと途切れた。
 フィアスは何事もなかったかのように、引き続き頭の中で脱出のマニュアルを組み立てる。殺気こそ閉じられたものの、フィアスのぴりぴりした空気を汲み取って正宗は聞いた。
「怒ったか?」
「……」
「まあ、怒られてもしょうがない」
「……怒ってない。あんたの聞きわけの悪さに、少し頭にきてるだけだ」
「そういうのを、怒っているっていうんだろう」
正宗の言葉に、フィアスは眉間に皺を寄せながら立ち上がる。
そしてひどくダルそうに、
「……ああ、分かった。俺は怒ってる。久々にキレる寸前まできている。それもこれも、あんたが大人げない駄々をこねるからだ。ベーゼに留まるなんて、本気で言っているのか? この期に及んで、また俺に説教させる気か? いい加減にしてくれ。腐った大人に道徳を教えてやってるほど、こっちは暇じゃないんだ」
ちっ、という舌打ちで締めくくったフィアスの文句に、正宗は乾いた声で笑った。
「分かったよ。凛に会いに行けばいいんだろ。会って、十七年前の話をして、俺が謝る。感動のシナリオだな。それで良いんだろ?」
「感動か……リンは気性が荒いから、あんた涙が出るくらい、殴られるかもしれないな」
フィアスの皮肉にも、正宗はにやりとしただけだった。



「……有益な話をするぞ、マサムネ。俺はこの扉の先の道が分からない。あんたはこの部屋から出口までの道のりを知ってるか?」
「ああ、一応分かっているつもりだ」
「念のために聞いておくが、銃の使い方は分かるよな?」
「おい、ガキ、俺を誰だと思ってるんだ? 十七人殺しの〈ドラゴン〉だぜ」
 正宗の冗談にフィアスはぴくりとも笑わない。ただドアの前にひざまづいて、銃口の先を地面に押し付け、その向こうの気配を窺っている。意識を扉に向けたまま、静かにフィアスは言った。
「扉の外には敵が四人……いや、五人いる。いいか、俺の合図があるまで、あんたは壁ぎわにぴったり張りついて、じっとしていろ」
フィアスの言葉に、正宗は素直に従った。五人もの敵とどのように戦うのか尋ねない。フィアスの腕前を信頼することにしたのか、自分の身が今更どうなろうと知ったことではないのか、扉近くの壁にそっと背中を預けると、両手で銃を構えてフィアスを見た。
「いいぞ、やってくれ」
 フィアスは扉を足蹴に開けた。扉の向こうがどこまでも見渡せる一瞬の隙に、敵の位置を確認する。扉の先は、来訪者用の通路と大差なかった。抗菌の廊下がどこまでも続き、唯一、先ほど通った道と違うのは廊下の先がエレベーターではなく、スロープと階段が上へ上へと続いていることと、廊下の右側に吹き抜けの部屋があり、通路の壁が部屋の手前で角になっていること。
 敵は小路の角に三人、階段の陰に二人いた。廊下の天井にスプリンクラーが取りつけてあることを知り、フィアスはいち早く銃弾を叩き込んだ。丸型のセンサーが吹っ飛び、勢いよく水が飛び散る。一つ目のセンサーに反応して、廊下に取りつけてあった全てのスプリンクラーが一斉に霧雨をまき散らした。発砲。弾丸の嵐。フィアスが扉の死角に身を隠した直後、耳をつんざくような射撃音とともに、しまりかかっていた扉が虫食い穴だらけになる。蝶つがいが外れ、滅菌室の立派な入口は今にも崩れかかりそうだ。
 銃を足もとに下げ、正宗の隣に身を落ち着けながらフィアスは独りごちた。
「奴らは何を考えているんだ。あまりにも……短絡的だ」
 研ぎ澄まされた聴覚が、いくつものマガジンキャッチの操作音を聞き取った。
 ここぞとばかりにフィアスは身を乗り出すと、スプリンクラーの霧雨の中から狙いを定めて前方の二人を撃つ。寸分の狂いもなく、弾丸は〈サイコ・ブレイン〉の腹部を貫いた。続けざまにフィアスは廊下に躍り出ると、マガジンを交換される前に、角にいた三人に向けて発砲する。そのうちの一人は弾を入れ替えた銃をこちらに向けて撃ってきたが、濃霧の中で標準は狂い、弾丸はあらぬ方へ飛んでいった。とどめの一撃をフィアスに撃ちこまれると敵は銃を持った手をだらりとぶら下げて大人しくなった。
 フィアスはひざまずいて、敵の銃から次々にマガジンを抜き取っていく。見たところこの三人はサイドアームも所持していないようだった。青白い顔は典型的な日本人の特徴を身に付けていて、年も若い……キョウヤと同じくらい。少年といってもいいくらいだ。貫かれた腹部からは血がどくどくと流れ出している。その中の一人が苦しげなうめき声をあげたが、それもスプリンクラーの音にかき消された。
 正宗が銃を構えながらやってくる。フィアスの背後から〈サイコ・ブレイン〉の少年兵を覗き込むと、ううん、と唸った。
「ここでは、あまり見かけない連中だ」
「こいつらは一回の任務に使われるだけの捨て駒だ」
「だから無鉄砲に撃ってきやがったのか。あれは、ハジキの扱いに慣れてないやつの撃ち方だったぜ」
「ああ」
少年の一人が痛みに顔を歪め、服部を押さえた。身をよじって苦しげに呻いている。
何か言いたげな正宗と目が合って、フィアスは首を振った。
「放っておこう……運が良ければ、助かるかもしれない」
 廊下を通り様、吹き抜けになった部屋を見渡して、フィアスは眉をひそめた。そこは面会室よりも大きい、一辺が三十メートル以上もある巨大なホールだった。真っ白な四角い空間。何もない……中央に何重にも覆われたガラスケースが一つ設置してある限りは。
「ここは……」
フィアスの呟きに、後方を歩いていた正宗が何事もないように答えた。
「俺の話にも出てきただろう……凛がこの中へ仕舞われないうちに、早く横浜に戻った方がいい」