俺が目覚めたのは、翌朝。さんざん掻き乱された家の玄関で、俺はうつ伏せに倒れたままだった。
部屋はしんと静まり返っていて、誰の気配もしなかった。俺は改めて、自分の子供が誘拐されたってことを確認したよ。全てが十分にも満たない間に起った出来事だった。俺は慌てて時間を確認した。午前九時四十分。八時間ほど気絶していたことになる。
 俺は銃を手に家を飛び出した。彩と凛の行方を知っていたわけじゃなかったが、とにかくベーゼへ向かおうと思ったんだ。家の車庫へ着くと――ここでも先手を打たれていた――車のタイヤが四輪ともパンクしている。これじゃあ自分の足でベーゼまで行けない。仕方がないからタクシーを拾おうと、俺は瀬谷のタクシー乗り場に向かった。
 そこで異様な女に遭遇したんだ。
〈3・7事件〉の最初の被害者、田中千夏とか言ったっけ。遠巻きにもその女の常軌を逸した雰囲気は感じ取れた。そいつは暗く落ちくぼんだ目をカッと見開いて、俺のことを睨みつけていたんだ。もちろん、俺はその女を知らなかった。丸っきり、赤の他人だぜ。
 だから、その女がどんなに狂人ぶった雰囲気をまとっていても俺には関係がないし、今はそれどころじゃない。俺は急いでその場を通り過ぎようとした。
すると、女が呟いたんだ。
「龍頭正宗というのは、あんたね?」
俺はぎょっとした。見れば、通りすがりの女が手に銃を構えているんだ。
 わけが分からなかったが、きっとこいつもネオの仲間に違いない。朝っぱらから公の場で物騒なモンを扱うことに抵抗があったが、背に腹は代えられない。俺も銃を構えた。撃ち合いになるだろうと思ったけれど、そうじゃなかった。
 俺が銃を持ったことを確認すると、女は照準を俺から外し、自分の左胸に当てた。パン、と射撃音がして、俺の目の前で女は崩れ落ちた。心臓をちゃんと貫かなかったのか、倒れてからも数秒苦しげにもがいていたが、やがて大人しくなった。彼女は自殺したんだ。何の躊躇いもなく銃を胸に当て、機械的に俺の前で死んだ。
 どういうことだ?
目を白黒させている俺に、耳が潰れるほどたくさんの悲鳴が届いた。正気に戻って辺りを見回すと、老若男女さまざまな人間が恐怖に怯えた目で俺を見ている。中には電話ボックスに駆けこんで通報している輩もいた。事情を知らない人間が見れば、それはあまりにも整い過ぎた殺人現場だ。俺は片手に銃を持っていて、目の前には胸を真っ赤に染めた女が倒れているんだからな。
罠だ、と気づいた。これはネオの仕掛けた罠だ。俺はその場から逃げ出した。
 電車やバスに飛び乗って、瀬谷から横須賀、星川、西横浜、黄金町……とにかく横浜中を逃げ回った。俺は半狂乱だった。というのも、瀬谷で自殺した女と同じように、俺の行く先々で人間が次々と死んでいったからだ。銃の先端を自分に向けて。
 死んだ奴とネオの間にどういう事情があったのかは知らない。とにかく、どいつもこいつも自ら命を絶っちまうのさ。淡々と引き金を引いて行くんだ、俺の目の前で。俺と同じ型の銃で。
 ……丸一日も、行く先々で自殺する人間を見せつけられてみろ。お前でも気が狂っていただろうよ。本当に、悪夢のような光景だった。
いや、夢ならまだいい。あんなもの、生き地獄だ。


 ふと気がつくと、辺りはすっかり薄暗くなっていて、俺は上野の団地に佇んでいた。自分でもどこをどう走って、こんなところにたどり着いたのか、分からない。いつの間にか俺の目の前にはネオがいて、疲労とショックで呆けた視界に、やつの赤い瞳を見たら、今までどうにか堪えていたものが、一斉に溢れだした。
 俺はその場に膝をついて、盛大に吐いた。さすがの俺でも、この二日間のできごとは優に精神の限界を超えていた。吐くものがなくなり胃液しか出てこなくともなお、歯止めが利かなかった。俺はげーげー吐き続けた。全身に冷や汗をびっしょりかいていて、体中が震えた。
「いっそ、俺を殺せよ……」
辛い胃酸を吐き出しながら、なんとか俺は言った。
「殺せ!」
……この時ばかりは心の底から死を渇望したよ。葵の涙、兄貴の怒り、娘たちの泣き声、女の自殺、ネオ、思惑、欲望、恐怖、絶望……どうして俺はこんなに苦しい思いをしなくちゃいけないんだ? どうして大切なものを次から次へと奪い取られなきゃならない? 涙と血にまみれ、反吐を吐き、連続殺人者の汚名まで着せられて、俺の傍には誰もいなくなった。これ以上、生きる価値なんてあるのか? とっとと死んで楽になりたかったんだ。
 ネオは首を振った。
「駄目だよ。正宗、君には今後も生き続けてもらわなければ困る。葵と交わった時点で、君も立派な研究対象なんだよ。双子には君の遺伝子も混じっている。彼女たちを育てる上で、君の存在は非常に役にたつだろうと思うからね」
ネオは俺の拳銃を取り上げた。俺がマカロフを自分の米神にあてようと思い立った矢先だ。
「正宗、一人だけ逃げようなんて、虫が良すぎるよ。葵をモノにした分の代償を、まだぼくに支払っていないだろう?」
ネオは取り上げた俺の銃を両手に弄んでいた。俺はわきあがる嘔吐感を必死に抑えつけた。崩壊寸前だ。俺はネオを見上げる余力もなく、地面にうずくまったままじっとしていた。神にすらすがりたい気分だった。ネオの気が突然変わって、俺を撃ち殺してくれないか。そんなことを願っていた。

……この事件で死んだのは、どいつもこいつもネオと繋がりのある怪しい人間ばかりだったが、ただ一人、上野の最後の被害者は、その団地を通りすがっただけの子どもだった。当時の彩や凛と同じ年くらいの女の子だ。恐らく友達の家で遊び過ぎたんだろう。子供は慌てた様子で、ちょうど俺たちのすぐ近くを通り過ぎるところだった。

「あの子、彩と凛に、似ているね」
気まぐれにネオは俺の銃を構えて、女の子に狙いをつけた。
「や、やめろっ!」
叫んだときはもう遅い。大きな銃声が鳴り響いたと思うと、硝煙しょうえんの焦げくさい臭いが辺りに散らばって、子どもはぱたりと倒れて起き上がらなかった。小さな体はあっという間に血の海に浸った。
 女の子が死んだ。
 俺にはそれが彩と凛の末路のように思えてならなかった。とどめの一撃を刺されて、俺は目の前が真っ暗になった。放心したまま、警察らしき人間が俺の肩を揺さぶるまで、俺は悲鳴をあげることもできなかった。
 耳元でたくさんのサイレンが鳴って、漆黒の闇の中、血のように赤いパトランプが辺り一面に明滅していた。冷たい手錠が両手にのしかかった。ネオの姿はなく、俺の足もとにはマカロフ拳銃が転がっていて、後の検査では十七発入りのマガジンに銃弾は一つも残っておらず、奴がどんな風に根回ししたかしらないが、被害者十七人を撃ち殺した弾の線条痕せんじょうこんは俺の銃から発射されたものと一致。家宅捜査も始まって、結局俺は麻薬で精神錯乱を起こし、大量殺人を発起したということで、片付けられてしまった。俺の方も罪を否定する気はなかった。これ以上、運命に逆らいたくなかったんだ。


 一度だけ彩と凛に会ったことがある。
警察からベーゼへ搬送されて間もないとき、特別にネオから許可が出たらしく、彩と凛はネオの手下の男たちに手を握られて、俺の収容部屋にやってきた。二人とも泣いていたよ。泣きながら、俺に見せたんだ……小さな胸に彫り込まれたばかりの黒い蝶の刺青を。
 俺は二人を抱き締めて、言ったんだ。
「ごめんな。すぐに戻るから、泣かないでくれ」って。
 その言葉は、二人を落ち着かせるための気休めに過ぎなかった。あの日以来、俺は娘に会っていない。会わなかったんだ、自分の意志で。俺が動くと誰かがいなくなる。そんな強迫観念が取りついて、それが今でも俺を押さえつけて離さない。
 十七年もこの場所に閉じ込められているのは、きっと俺の意志であるかも知れねぇんだ。