ベーゼに着くと、俺は車のサイドボックスに入れておいたマカロフを二丁ポケットに忍ばせた。
これはとんでもないことになった。この時になって初めて危機を感じた。馬鹿だよな。横浜に名を轟かせた走り屋、〈ドラゴン〉が聞いて呆れるぜ……。
 俺はいつもの通り葵の居る地下へ向かった。ベーゼで俺が知っている唯一の施設は葵のいる部屋だけだったし、ネオも大抵地下にいた。ネオは医学的な知識を持ち合わせているらしく、葵の部屋の管理をほぼ一人で行っていた。といっても、俺はその十ヵ月間でネオ以外の人間は一人として見かけなかったわけだが……。
 案の定、その時もネオは葵のガラスケースの傍にいて、無表情のまま葵の顔をじっと見つめていた。
 息せき切って俺がそのフロアへ飛び出したとき、ネオは俺に向かって何かつぶやいたように見えた。「ついに……」とかなんとか。あの時はそんなこと知ったこっちゃなかった。
 俺は怒りに震えながら、訴えたよ。
「おい、俺が今まで運んできた荷物は全部笹川組が不利になるようなものだったのか? お前は笹川組を潰すために、こんなにまわりくどい計画をしたのか? そのために葵までボロボロにして……一体彼女が何をしたんだ。お前は笹川組に何の恨みがあるんだよ!?」
俺の言葉にネオは驚いているみたいだった。ポカンと口を開けて俺を見ていたかと思うと、やっと合点がいったらしい。突然、腹を抱えてげらげら笑い出したんだ。
「あはははは。正宗、見当違いもいいところだよ! 僕が笹川組を潰すって? 冗談じゃない。ヤクザの組織一つ失くしたところで僕になんの得があるのさ? 違うよ、そうじゃない。僕の目的は……」
どうやらこれ以上は秘密のようだ。ネオはここで言葉を切ると、大きく咳ばらいをした。ガラスの壁に手を添える。
 ネオの視線の先を見て……俺は気づいたんだ、今までぴくりとも動かなかった葵が寝返りを打っていることに。
同時に葵の声がガラスケースを通してこっちにも聞こえてきた。それは胸を裂くような、苦しげな悲鳴だった。
「ネオ! 葵に何かしたのかっ?」
俺はネオに詰め寄った。ネオは俺の剣幕に臆することなく、いつもの笑みで言ったんだ。
「正宗、君は非常に良い働きぶりをしてくれたからね。あの薬……死者をも蘇らせるあの薬を葵に投与したんだよ。今に葵は自由になる」
自由だって? 葵は自由になるどころか、苦痛にうめいているっていうのに、何が自由だ。約束が違う。俺は葵を目覚めさせるために今までやってきたんだ。苦しませるためじゃない。ガラスケースの外側からでも、葵の死が目前に迫っているのは目に見えていた。
 これは目覚めの兆候ではない、命が消えるときの苦しみだ。
「葵……葵!」
 俺は彼女の名前を呼びながらガラスケースを叩いた。目の前で女が死にそうになっているのに、俺は指をくわえて見ていることしかできないなんてあんまりだ。傍へ行きたい。この十ヵ月、葵に触れることすら叶わなかったんだ。せめて最期の瞬間だけでも彼女の傍に……俺はポケットのマカロフを取り出すと、ガラスケースに狙いを定めて、撃った。
 ガラスの割れる不協和音が響いて、何重にも張り巡らされていたガラス壁が一斉に散らばった。飛散したガラスの破片が俺の頬をかすめ飛んだが気にならなかった。俺は葵の元へ駈け出した。葵の肩を抱いて、必死に彼女の名前を呼び続けたんだ……葵、葵、葵。


 そのとき、不思議なことが起こった。それは時間にしてほんの一分程度だったか――俺には一時間にも二時間にも感じられる時間の長さだったが――葵が目覚めたんだよ。何事もなかったかのように大きな眼をパッチリ見開いて、相変わらず色素の薄い瞳で俺を見た。それで俺の名前を呼んだんだ。「正宗……?」って。
「本当に、正宗なの……?」
葵が震える手で俺の頬を撫でた。眼の前にいる男の顔が幻かどうか、確かめているようだった。だから俺ははっきりと彼女の名前を呼んだんだ。
「葵。俺だよ、正宗だよ」
葵の大きな目からは涙が零れ落ちた。
わっ、と大きな泣き声をあげると、縋りつくように俺の首筋に抱きついた。
「正宗……! 正宗……! わたし、ずっと、あなたに謝りたくて。勝手にいなくなって……ごめんね」
俺も信じられない思いで、笹川組のことすら忘れて、目の前にいる葵の体温を噛みしめたんだ。
 葵が目覚めた。七年ぶりに俺の腕の中にいる。過去と現在のしがらみが一切消えちまって、その瞬間だけはこの世の全ての苦痛から解放されたみたいに心地良かった。
 だけど、それも長くは続かなかった。
「正宗、愛しているわ。いつまでも、ずっと、あなたのことだけを……愛してる」
 その言葉を最期に、首にこもった葵の腕の力が緩んで、葵はどさりと俺の腕から崩れ落ちた。慌てて俺が抱き起こしたときにはもう息がなかった。大きな瞳は閉じられることなく真っ直ぐに俺を見つめていた。俺は葵の瞳に映る自分の姿をじっと眺めていた。そこには、両目を涙で濡らした女々しい自分の顔があるばかりだった。
葵が死んだ。
やっとそれを認識できたのは、五分も経った頃だろうか。


 「約束は守ったよ」というネオの言葉で俺は我に帰った。見ればネオは右手に銃を持って、遠巻きから俺の額に狙いを定めていた。俺が自棄を起こしてネオを撃ち殺さないとも限らない。先手を打っての行動だろう。
「葵に投与した薬はね、脳内のアドレナリンを一瞬にして活性化させる気つけ・・・薬なんだ。活性化した脳の衝撃で意識不明の人間も、水をひっかけたように目を覚ます。だけどね、アドレナリンの副作用でものの一分もしないうちに心不全を起こしてしまうんだよ。まあ、葵が目覚めたのには変わりないし、僕の手から彼女を自由にしてあげたんだ、約束は守ったことになるよね。……さあ正宗、マカロフを捨てて。もう一つ、ポケットに入っているだろう」
言われたとおりに拳銃を二丁床に置いた。逆らう気力がなかった。これから自分がどうなってしまうのかすら、恐怖の対象から外れていた。葵の亡骸を前にして、ショックで何も考えられなくなっちまっていた。
 俺は一体どうしてここにいるんだ? これは本当に現実か? 悪い夢でも見ているんじゃないのか?
「正宗、しっかりしなよ。横浜を揺るがした〈ドラゴン〉が、たった一人の女ごときに涙を見せるなんて情けないと思わないのか? 僕の話をよく聞くんだ。いいかい? ここから先は《契約》じゃない、《選択》だ……正宗、ちゃんと僕の目を見て!」
 ネオはいつの間にか俺の傍にいて、苛立たしげな顔で俺を睨んでいた。その時俺は自分のこめかみに銃口を突き付けられていることにすら気付かなかった。もちろん、ネオの戯言なんて聞いちゃいなかった。それが奴には気に食わなかったんだろう。
 俺の胸ぐらを掴み上げるとネオは凄んだ。
 耳元で、撃鉄を落とす音がした。
「アンタは自分の取る道を選ばなくちゃいけないんだ! このまま葵の元へ行かせてあげてもいい。アンタにはその方が幸せだろう。だけど笹川組はどうする気だ? 君のバラまいた笹川組の破壊装置は、敵の手に渡っている。僕が合図を送れば、奴らは一斉に攻撃を開始する。君がここで死ぬと笹川組まで消えてなくなる事になるんだぞ。それでも良いのか?」
ネオに言われて、俺は目を覚ました。笹川組。それは葵と同じくらい、俺にとっては大切なものだ。
全ては目の前にいる子供の仕組んだことだったが、今はこいつをどうにかしている場合じゃない。
「笹川組を……救うためには……どうすればいい?」
ネオを殺したいのは山々だったが、わき上がる怒りをどうにか堪えてネオに聞いた。俺が正気に戻ったと分かって、ネオは満悦の顔だ。
「いい子だ、正宗。君に二つのことをしてもらう……まずは、一つめ」
ネオは人差し指を一本立てて、にっこりとほほ笑んだ。
「笹川組から手を引くこと」
「手を引く?」
「ああ、そうさ。笹川毅一と兄弟の縁を切って、離れるんだ。そうすれば、笹川組を生かしておいてあげる。組織の安全は保障しよう」
「笹川組と手を切る……」
葵のときとは違う意味で涙がこぼれそうになっちまった。笹川組は俺にとって、もう一つの家族みたいなもんだ。何年にも渡って世話になってきた組を、こんな形で去ることになるなんて、俺に対する侮辱もいいところだ。
 だけど、他に道はなかった。
葵の一件で、ネオの前ではどうすることもできないってこと、よく分かっちまったからな。ネオが言うからには、笹川組を助けるためには俺が手を引くより道はないんだろう。絶望と屈辱の板挟みになりながらも、俺は首を縦に振るしかなかった。うなだれた俺の頭をネオは撫でた。まるで、親が傷ついた子供を慰めるみたいに。俺の方がこいつより何歳も年上なのに、妙な心地がした。
「ごめんね正宗、長い間仲良くしてきた友達と手を切るのは辛いだろう。だけど、落胆するのは早いよ。もう一つ、君には義務があるんだから」
ネオは中指を立てた。二つ目。
「僕を、彩と凛に会わせてほしいんだ」


……この言葉を聞いて、俺は葵に誓ったんだ。

娘だけは、俺が命に代えても守ってやるって。