遠くから微かに、ザッザッザと土を踏みにじる音が聞こえた。段々近づいてくる。バイクには乗っていない、徒歩だ。
今日の「美麗」の集会には来れないと言っていた伸也が来たのではないかと、直樹は期待したがどうやらそうではないらしい。……一体誰だ?
 薄暗がりの中、その人物の顔は見えなかったが、歩き方やふるまいから男だと分かった。それも、若者のどんちゃん騒ぎを注意しに来た警察官ではないようだ。五十人以上いる暴走族の輪の中に、たった一人で注意をしに来る命知らずな警官はいない。
こんな真夜中に一人で大岡川の河川敷にやってくるのは、痴呆の老人か変質者、またはホームレスのオヤジである。
アンナも直樹の隣で目を凝らしながら、自分達の方へ向かってくる人間を見ていた。
「え、誰……?」
不安なアンナの声を解消してやろうと直樹は、部下に命じた。
「オイ、晃。花火で人影を照らせ」
はい、と頷いて部下が100円ライターで手持ち花火に点火する。たちどころに白に肌色が混ざったような火の粉が吹き荒れ、辺りがぼうっと明るくなった。
暗い中で、いきなり輝きだした花火の強い光に微かに眼が痛くなったものの、周りの風景がはっきりと見えるようになった。勿論目の前にやって来た男の姿もはっきりと見える。
「外国人……?」
 花火によって照らし出されたのは、色の薄い金髪に灰青色の瞳を持つ二十代くらいの男の姿だった。いや、二十代と断定してよいのかも分からない。直樹よりも少し年上なだけにも見えるし、若々しい三十代にも見える。
「年齢不詳」という言葉は、あらゆるところで耳にするが、まさにそれを表現しているような風貌である。
一重の切れ長な瞳、形の良い眉に筋の通った鼻、日本人とは基本的に違う色素で構成された白い肌――それだけでは線の細いような印象を与えるが、180cm以上ある身長とそれなりについた筋肉でひ弱ではないということが分かる。彼が着ているものは、闇に溶け込むような黒いスーツだ。
「か、かっこいー……」
惚れっぽいアンナが、早速男の形容を見て感想を言った。男の表情は無表情だが、確かに均等の取れた精悍な顔つきをしている。
 しかし、彼女であるアンナが言うと、直樹は全然いい気持ちではない。男に釘付けになっていたアンナを無理やり背後に回し、直樹は威嚇するような低い声で言った。
「誰だ、アンタ。俺らに何か用?」
言ってから、この男に日本語が通じるのかという疑問が頭を掠めたが、直樹に英語は分からない。
日本語でも「声」を発したところで向こうも何らかのリアクションを取ってくるだろうと思った。外見から分かるとおり、男は欧米系だ。リアクションを取るところで、大袈裟なジェスチャーか。
だが、
「お前が、このチームのリーダーだな? 少しばかり聞きたいことがある」
低い声で発せられた男の声はなだらかな日本語だった。日本人の日本語と変わらないくらい、アクセントの付け方も完璧だ。
流暢な日本語に内心ぎょっとしながらも、直樹は男を強く見据える。
「俺はアンタに聞きたいことはねぇな。ボコられたくなかったらさっさと消えろや!」
我ながら惚れ惚れするような怒声だ。最後の方にはドスも混えさせたので相当ハクがついている。数人の部下までもが直樹の声にビクリと肩を震わせた。ただ、隣でアンナが少し嫌な顔をしたのが、唯一の後悔だが。
 直樹は勝ち誇った顔で、男が直ちに背を向けて走り出すのを見ようとしたが、男はまだ上着のポケットに手を突っ込んでその場に立っていた。顔はなんと笑っている。冷や汗を流した愛想笑いではなく、こちらを小馬鹿にしたような嘲笑的な笑いだ。
「随分と威勢のいいガキだな。面白い」
またもや完璧なアクセントの日本語。この男、日本の生活が長いのだろうか。……いや、そんなことを考えている場合じゃない。馬鹿にされている。横浜最強の走り屋集団「美麗」を鼻で笑ったな。
「ああん!? てめぇ、もういっぺん言ってみろ!」
さらにドスを利かせた大声で直樹は言った。その間、花火が切れたので部下に2本目を付けさせるように命じること忘れない。
「おい、お前ら。コイツを狩れ」
直樹は手近にいた部下二、三人に命令した。部下たちは、はい、と嫌な顔をすることもなくうなづいた。直樹は自分が王様にでもなったような感覚に陥る。何て気持ちがいいんだろう!哲司さんは毎回、この快感を味わっていたのか。
 男の服装は黒いスーツの上下に薄い灰色と紫の混じったような色のシャツを着ていた。典型的な仕事着だが、どれも品の良さそうなものに思えた。きっと海外の有名なブランド物だ。手首にはロレックスと思われる銀色の腕時計、緩んだシャツの胸元にも銀の鎖が光っている。
きっと大変な金持ちに違いない。そもそも、海外に住んでいる外国人はセレブと相場が決まっているのだ……と、これは直樹の偏見なのだが。
 この男はその辺の肥えたオヤジよりも金目のものを持っているに違いなかった。ここは、オヤジ狩りならぬセレブ狩りだ。
五十人いる「美麗」の人間のうち四人もいれば十分だろう。直樹は自分の400ccに座りながら高嶺の見物とかしこんだ。
「ねえ、死んじゃわない?あの人……」
オヤジを狩る時は甲高い声で笑いながら傍観しているアンナが、不安そうな顔で直樹に訴えた。そんなに、あの外国人を気に入ったのか。シャクに障る。
「別に死なねえよ――顔が変形するのは保障できねぇけどな……」
そう言いながら、近くにいた部下に目配せして直樹はニヤリと笑った。「美麗」を侮辱した罰は重いのだ。今更命乞いをしても遅い。ここは瀕死状態ひんしじょうたいの一歩手前までリンチしたいところ。

 四方を鉄パイプを持った部下に囲まれても男は、顔色一つ変えずに直樹を見ていた。怯えも恐れもなく、ひたすら無表情。ただ、心持ち呆れているような顔だ。悪戯いたずらの過ぎた子供を遠巻きに見ている通行人のような顔である。
ため息をついて男は言った。
「やめておいた方が身のためだと思うが」
「ああ? 日本語の使い方間違ってんじゃねぇのか?正しくは“やめて下さい”だろ」
取り巻きの一人が薄笑いを浮かべて言った。男がその取り巻きを睨みつける。鋭い、獣のような眼光。余裕綽々の笑みで笑っていた取り巻きの額に自然と汗が浮かんだ。男の余りにも鋭い目に、気後れてしまったらしい。
こら、ビビってんじゃねぇ! こっちは五十人もいるじゃないか! 直樹は心の中でその部下を一喝した。
「仕方がないな」
独り言を呟いて、取り巻き4人を一瞥、最後に直樹をその水平線の境目の海のような瞳で捉えて男は言った。
「The die is cast.(賽は投げられた)」
瞬間。
花火の灯火が消えた。
今まで明るかった場内が暗闇に返還され、辺りは何一つ見えなくなる。取り巻き四人と男の姿も闇に消えた。
「直樹、火は?」
アンナに言われるよりも早く、直樹は部下に三本目の花火を点火するように命令する。
しかし、この暗闇、部下も手元が狂うようで火をつけるには一苦労だ。
「何やってんだよ、トンマ! 早くしろ!!」
直樹が部下に罵声を浴びせる。
「すすすすすいません、総長。い、今付けます!」
火付け役は、まだ「美麗」に入ってから間もない下っ端だった。直樹は怒鳴ってしまったことを少し後悔した。
 直樹が目指す族社会は、覇権政治ではなくデモクラシーだ。部下を力で押さえつける総長の率いる族は大抵早くに潰れたり、他の族に食われて行ったりしている。このせちがらい族社会、いかに下っ端から幹部までの信頼性を集めるかが、存続の鍵となる。
“部下を思いやれる、カシラになれ”
哲司さんに教わったことを直樹は思い出した。
「いい。焦らなくていいから」
少し優しい口調で部下に言ってやった。どうせ、もう勝敗は決まっているし。
直樹の耳には先程から「ぎゃ……っ」とか「う……」という悲痛な声が届いている。
部下に、手加減しておけと命じた方が良かったか? まあ、もう後の祭りだろうが。